昭和18(1943)年11月、東京「サミット」が開催された。

投稿日: 2011年10月6日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

時中の昭和18(1943)年11月、東京。ここを舞台に「サミット」が開催された事を知っている人が今現在、どのくらいいるでしょうか? そのサミットの名は「大東亜会議」。日本の勢力下にあるアジア諸国の首脳が、東京に一同に会したこのサミットについて、戦後、連合国側によって、「参加国」・採択宣言共にすべて否定されてしまいました。しかし、このサミットの「参加国」・採択宣言は否定されるべきものだったのでしょうか? 戦後教育によって否定された「大東亜共栄圏」の理念が明確に打ち出されたこのサミットについて触れてみたいと思います。

東亜会議。戦時中の東京で開催されたこの会議に参加した面々を先ず挙げてみましょう。

 

バー・モウ
張景恵
汪兆銘
東條英機
ワンワイタヤコーン殿下
ホセ.P.ラウレル
チャンドラ・ボース

 

ここで、おや?と思われた方も多いのではないでしょうか? 中華民国や満州国はともかく、フィリピン・ビルマ・インドは確か、戦後に「独立」した筈では無いかと。現に現在の学校ではその様に授業で教わる筈です。しかし、こと前述の3国はれっきとして当時「存在」していました。

ず、フィリピンですが、米西(米国とスペイン)戦争の際、スペインからの「独立」を認めると言う米国に騙されたフィリピン人が米国側に立って戦いました。しかし、独立は認められず、結局、1897年、エミリオ・アギナルドを大統領に革命政府(第一共和国)が樹立されます。しかし、圧倒的な軍事力の前に革命政府は1901年崩壊します。その後、独立運動と日本の勢力下にフィリピンが入る事を恐れた米国は、1935年、マヌエル・ルイス・ケソンを大統領に、「コモンウェルス」(アメリカ連邦内の自治領)とします。これで独立したのかと言いますと、あくまでも「自治」であって、実際は米軍による「軍政」でした。フィリピンが独立したのは、開戦2年後の1943年。日本の支援を受けたホセ・パシアノ・ラウレルを大統領に第二共和国が樹立された際です。ちなみに、現在のフィリピンは戦後の1946年に成立した第三共和国に当たります。

のビルマ(現ミャンマー)ですが、1942年まではイギリス連邦領でした。しかし、昭和16(1941)年、日本はビルマの独立援助と援蒋ルート(中国・蒋介石政権への連合国からの物資支援補給路)遮断を目的に「南機関」と言う大本営直属の特務機関を発足させます。機関長の名は鈴木敬司大佐。着々と準備を進めた南機関(日本)は、英国領時代からの指導者バー・モウを中央行政府長官(首相に相当)に、1942年、軍政を敷きます。そして、翌年、バー・モウ長官を国家主席(首相)にビルマ共和国の独立を認めたのです。その後、日本から独立した「ビルマ共和国」は戦争終結の際、再び英国領となるのですが、南機関ら日本の援助によって発足したビルマ独立義勇軍(現在のビルマ国軍の前身)を率いるアウン・サン将軍らの奮闘で、1948年、ビルマ連邦社会主義共和国として完全独立を果たしました。ちなみに、現在でもビルマ国軍のパレードは、日本のパチンコ屋で流れたのと同じ「軍艦マーチ」で始まります。

後の自由インド仮政府ですが、これは要は「亡命政権」で、領土はと言いますと、インド洋に浮かぶアンダマン・ニコバル両諸島でした。しかし、この亡命政権の首班(首相兼国民軍総司令)であったチャンドラ・ボースは、マハトマ・ガンジー(インド独立の父)やジャワハラル・ネール(初代首相)と言った政治家と同じくインド国民会議派に属し、大戦前には同派議長も経験した人物です。ネールらがインドで英国官憲に拘束された際も、ボースはインド独立と言う大義を胸に、自ら亡命政権を率い、大東亜会議にも「インド亡命政権代表」として参加しました。

て話を戻して、大東亜会議ですが、第一に、参加した「独立国」代表はいずれも日本の「傀儡」では無く、多かれ少なかれ母国独立のリーダー的存在だったと言う事です。第二に、同会議で採択された宣言-すなわち『大東亜宣言』の内容を正当に評価すべきです。その宣言の全文を以下に掲載します。

大東亜宣言全文

「 抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あひよ)り相扶(あひたす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり
 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり
 大東亜戦争の原因茲に存す
 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全(まつた)うし左(*原文のまま)の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。
 一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す
 一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
 一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す
 一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
 一、大東亜各国は万邦との交誼を篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」

の宣言を読まれてどう思われるでしょうか? 「共存共栄」・「互助敦睦」・「伝統尊重」・「経済発展」・「人種差別撤廃」等々、その理念は非常に高いものばかりです。アジアが欧米列強による植民地支配を受けてきた歴史を紐解けば分かりますが、植民地においては、現地の人々は最下層の地位に落とされ、「共存共栄」等もっての他でした。又、「経済発展」にしても、あくまでも「資源」と「労働力」の搾取が目的でしかない植民地に対して宗主国が経済発展等の政策を打ち出す筈もなく、更に「人種差別」に至っては、徹底していました。そんな欧米的発想と真っ向から対決する姿勢が、この宣言からは溢れています。確かに、参加国は日本の「息」がかかった国々ばかりでしたし、日本が戦争に敗北した事で、連合国から「侵略国」の「汚名」と「烙印」を押された事にも寄るのでしょうが、現在にも通じるその理念理想まで、全て否定していいものでしょうか? 私は今一度、大東亜会議の「歴史的意義」と採択された宣言について、再考を迫りたいと思います。

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