.”2605年8月17日” インドネシア独立秘話

投稿日: 2011年10月6日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

ンドネシアのムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔(モナス)。この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。「第一の神器」は、スカルノ(初代大統領;左写真の向かって右側)とハッタ(初代副大統領;左写真の向かって左側)がサインした独立宣言書(下写真)なのですが、ここに記された日付は「05年8月17日」。インドネシアが独立を宣言したのは西暦1945年。なのに、日付に記された年は「05」年。実は、この「05」年は、当時、「昭和」と共に日本で使われていた「皇紀」(神武天皇の即位した紀元前660年を元年とする)で、「2605」年が略されたものなのです。さて皆さん、なぜ、スカルノ等はインドネシア独立宣言書に日本独自の紀年法である「皇紀」で年月日を記載したのでしょうか? そこには、インドネシアの独立に深く関わった「日本」の存在があったのです。と言う訳で、今回はインドネシア独立と日本との関係について触れてみたいと思います。

インドネシア独立宣言書 ず最初に、日本とインドネシアの「出会い」から書きましょう。よく「大東亜戦争」(太平洋戦争)と言うと、日本が米英(及び連合国)に対して宣戦布告した事になっていますが、こと、オランダに関しては、逆にオランダから日本に宣戦布告してきたのです。当時、オランダもアジアに植民地を持っていました。「オランダ領東インド」(通称、「蘭印」)-インドネシアの前身です。日本の初戦における電撃的な勝利に危機感を感じたオランダは、「大東亜共栄圏」構想-アジア解放を「錦の御旗」に掲げて蘭印へ進軍して来るであろう日本軍の機先を制する目的で、先手を打って日本に宣戦布告してきたのです。これに対して、日本軍は昭和17(1942)年3月1日、今村均(ひとし)中将(下写真)率いる「帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍」(通称「治(おさむ)部隊」)、2個師団総勢55,000人を擁して、ジャワに敵前上陸し、インドネシアへの第一歩を踏んだのです。さて、ジャワに上陸した「治部隊」ですが、ジャワに伝わる一つの伝説「ジョヨボヨの予言」(北方から小柄な黄色人種がやって来て、自分達を解放してくれる。しかし、ジャゴンの花が咲く頃には帰ってゆく・・・)が奏効して、親日一色に染まったジャワ島民の支持もあり、「治部隊」の2倍の兵力を擁していたオランダ軍(蘭印連合軍)を、上陸後、僅か9日にして降伏させたのです。

て、ジャワを占領した日本軍はこの地で一体何をしたのでしょうか? 第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。

  1. 日本人とインドネシア人は同祖同族である
  2. 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
  3. 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

今村均 当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。更に、ジャワ軍政府の施政も住民の支持を得ました。例えば、

  1. 農業改良指導
  2. 小学校の建設と、児童教育の奨励
  3. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
  4. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
  5. 5人以上の集会の自由
  6. 多方面でのインドネシア人登用
  7. インドネシア民族運動の容認
  8. インドネシア人の政治参与を容認
  9. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
  10. 各州・特別市に「参議会」を設置
  11. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
  12. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

等ですが、これらは住民にとって、どう見ても、独立への「ステップ」としか映りませんでした。そして結果的に、ジャワ軍政時代にインドネシア独立の「段取り」は全て整えられたのです。

方、インドネシア人にとって「救世主」と映った今村司令官ですが、大本営との意見対立(ジャワ軍政の施政方針は多分に今村司令官の独断であった)で、在任僅か10ヶ月でジャワ軍司令官を解任、終戦の際に戦犯としてバタビアのチビナン監獄に収監されました。そして、今村将軍(終戦時、陸軍大将)も「死刑」の危機にあったのです(部下の何人かは既に処刑されていた)。この時、映画さながらの「ドラマ」があったのです。なんと、インドネシア独立の父・スカルノ等独立運動指導者が、死刑寸前に今村将軍を「奪還」しようとしたのです。結果的に、今村将軍は死刑執行寸前に釈放され、この奪還作戦は幻に終わったのですが、さて皆さん、ここまで書いた所で、今回のテーマに戻ろうと思います。そうです。なぜ、インドネシアの独立宣言書に「皇紀」が採用されたのか? それは、大本営の命令に反して、独断でジャワ軍政を進めた今村将軍と、独立戦争の際、独立義勇軍(インドネシア国軍の前身)に身を投じた2,000人もの日本兵(彼らの多くは復員せず独立戦争に参加。独立後もインドネシアに残った)に対してはらわれた最大の「敬意」ではなかったでしょうか。

ハルト大統領は在職時に、インドネシアの体制を「家族主義」と称しました。勿論、これには、スハルト体制下、一族及び子飼いの側近が政治・軍事・経済の枢要を占めた事実を正当化する意味もあったでしょう。しかし、その根底にあったものは、ジャワ軍政当初、今村司令官が布告第1号で唱えた「同一家族・同胞主義」ではなかったでしょうか? オランダによる植民地支配から解放し、独立建国に至るレールを敷いた今村司令官によるジャワ軍政。それは、今日に至るまで、インドネシアの根底に深く根を下ろしている様に思えて仕方ありません。

参考文献

  • アジアに生きる大東亜戦争(ASEANセンター編 展転社 1988)
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