朝鮮を独立させたのは「日帝」だった!! 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

後、コリア(韓国・北朝鮮両国)は、戦前の日本植民地時代 ── いわゆる「日帝36年支配」を事ある毎に引っぱり出して来ました。それに対して日本も、これ又事ある毎に歴代の総理(政権)が「謝罪」を繰り返してきました。しかし、考えてみればある意味でこれは非常におかしな事なのです。なぜなら、コリアは、668年の新羅(シルラ,しらぎ)による朝鮮半島統一から ── 1897年、大韓帝国(旧称・李氏朝鮮)の成立に至る1200年間、実は「独立国」ではなかったからです。こんな事を言うと、コリア人は逆上するかも知れませんが、残念ながらこれは「事実」です。百済(ベグジェ,くだら)、次いで高句麗(コクリョ,こうくり)を滅ぼし朝鮮半島を統一(668年)した新羅は、その過程で東アジアの「超大国」唐の軍事力を利用しました。それが災いして、「戦後」、唐は新羅一国となった朝鮮半島を自らの領土にしようとしたのです。つまり、「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」と言う訳です。しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有(直接統治)を断念せざるを得ませんでした。ただ、その過程で新羅に対して、唐は自らの「属国」になる事を呑ませました。つまり、唐は新羅と言う「属国」を通して朝鮮半島を実効支配(間接統治)する道を選んだのです。こうして、唐に始まる歴代支那王朝(政権)を「宗主国」と仰ぐ「属国」コリアと言う関係 ── いわゆる「朝貢関係」が成立したのです。

て、こうして始まった「宗主国」支那と「属国」コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。例えば、国王。コリア(新羅・高麗李朝の歴代王朝)では、たとえ「世子」(皇太子)だったとしても、支那皇帝の承認がなければ王位を継承する事が出来ませんでした。又、コリア王の地位は、支那皇帝は元より、朝鮮駐箚(ちゅうさつ)(支那がコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治・軍事全般を監督させた)よりも、「下位」でした。

 

に元号(年号)。日本では一般に「大化」に始まった(実際にはもっと起源は古いのだが・・・)日本独自の元号が連綿と現代迄続いていますが、コリアでは支那の元号を使わなくてはなりませんでした。と同時に、政治・文化全般においても、支那の「国教」とも言える儒教思想を規範としなくてはなりませんでした。更に、朝貢制度によってコリアは支那に定期的に使節団を派遣、支那皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢ぎ物を献上しなくてはなりませんでした。こう言った事が数百年も続くと恐ろしいもので、いつしか「屈辱的」共言える朝貢制度に何らの疑問も持たなくなり、自らを「小中華」と号し、「本家」支那以上の「中華主義」に徹したのです。そして、支那(明王朝)が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の「中華」が死滅すると、「中華主義の本家(明王朝)が滅んだ以上、中華主義を厳格に守るのは我々しかいない!!」と言う変な使命感を抱き、ますます「小中華」に徹してしまったのです。そして、時代は激動の19世紀を迎えたのです。

米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアに迄広がって来たのです。まず、その標的となったのは東アジアの「超大国」清朝でした。阿片戦争(1840-1842)において清朝がイギリスに敗れた事により、「眠れる獅子」がその実、「張り子の虎」である事が白日の下に晒(さら)されてしまったのです。この事件が契機(衝撃)となり、日本は幕末・明治維新と言う難産を経て、近代国家への離陸を果たす事となったのですが、清朝は相も変わらず鈍重な「眠り獅子」を決め込み、その「属国」である李氏朝鮮(以下、「李朝」と略)も時代遅れな「小中華」に浸ったままだったのです。

代国家へ変貌を遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止する為、隣国である李朝に「開国維新」を迫りました。つまり、日本と李朝が連携して一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐しようと考えたのです。しかし、「小中華」に腰からどっぷりと浸かり、両班(ヤンバン:コリアにおける特権階級貴族)による政治腐敗の極致にあった当時の李朝は、世界情勢 ── 東アジアの植民地化の波が目の前に迫っている事が理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。これによって日本は「対話」から「砲艦」(軍事的圧力)による問題解決 ── いわゆる「征韓論」へと方針を転換、明治8(1875)年の江華島(カンファド)事件を契機に、翌明治9(1876)年、日朝修好条規を締結し、李朝を「開国」させたのです。

朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした「独立国」として承認しました。よくコリア人は、「日帝(日本帝国主義)は朝鮮の独立を奪い、挙げ句の果てには韓国併合(日韓併合)と言う暴挙に出た」と声高に主張します。しかし、当時、清朝李朝に対する「宗属関係」(宗主国と属国の関係)を主張し、欧米列強も李朝を「独立国」として認めず、清朝の「属国」・「属領」として認知していました。そんな中、日本だけが唯一、李朝を「独立国」として承認したのです。そんな気持ちを知ってか知らずか、李朝は相も変わらず清朝を「宗主国」として仰いだのです。その後、日本は朝鮮半島政策を巡って、「宗主権」を主張する清朝と対立、明治27(1894)年、遂に日清戦争へと発展したのです。結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝は遂に李朝に対する「宗主権」を放棄、明治30(1897)年、李朝は国号(国名)を「大韓帝国」、国王を「皇帝」と改称し、遂に「独立」を達成したのです。言い換えれば、日清戦争における日本の勝利が無ければ、李朝は「独立国」となれなかった(裏を返せば、「属国」のまま)訳で、コリア人はその事実を直視すべきだと思うのです。

李氏朝鮮(以後、李朝と略)の時代遅れの「小中華主義」に触れましたが、問題は更に根深かったのです。コリアは新羅から高麗を経て李朝末期に至る迄、なんと日本の平安時代よろしく両班(ヤンバン)による貴族政治が連綿と続いてきました。このコリア版貴族「両班」ですが、元々は「武班」と「文班」を総称して「両班」と言っていたのですが、「武班」が蔑まれた事も手伝って、「文班」のみをさして「両班」と呼ぶようになりました。現代風に言えば、軍人の地位が低下し、官僚の地位が向上したと言う事になるのでしょうが、これがコリアの近代化を遅らせる大きな遠因となったのです。

 

班による貴族政治体制は、コリアに封建時代 ── 日本で言えば、戦国時代を招きませんでした。日本や支那の場合にも言えますが、戦国時代は戦乱に明け暮れると言うマイナス面も確かにありますが、それ以上に地方の独自性が顕著に発達すると言うプラス面もあります。しかし、コリアにはとうとう封建時代は訪れませんでした。その結果、恐ろしい程の強固な中央集権体制が完成してしまったのです。現代日本にも言える事ですが、中央集権体制は確かに国土を一元的に管理するのには非常に効率的な政治システムです。しかしそれが長く続くと、弊害として汚職・政治の硬直化等を招くのも確かです。そうです。李朝も末期になると、両班による中央集権体制の弊害がこれでもかと言わんばかりに顕著になっていったのです。

 

班政治の悪弊。具体的に挙げると、日本では江戸時代に東海道等に代表される街道(現代の国道に相当)が整備されたのに対して、李朝では末期に至る迄、「道」(街道)と言えるものは遂に整備されませんでした。あったのは「径」(こみち:畦道のような細い道)だけです。こんな具合ですから、物資はおろか隣同士の村でさえ、人的な交流はほとんど皆無でした。又、徴税システムが完全に崩壊していました。中央(国王)に納められる筈の税金(及び物品等)のほとんどが途中で消えてしまっていたのです。つまり、中継ぎの役人の手を経る毎に次々と横領されていき、中央に着く時にはそのほとんどが無くなっていたのです。更に、当時の国民のほとんどを占めた農民は、制度化されている税金以外に、当地の役人達が勝手に設ける「私税」をも無理矢理徴収され、現在の北朝鮮よろしく慢性的な食糧不足の中、正に「この世の地獄」を生きていたのです。そこへ現れたのが、明治維新で一足先に近代化の道を歩みだしていた日本の「黒船」だったのです。(詳しくは前回のコラム参照)

 

華島事件(1875年)日朝修好条規(1876年)を経て新たに始まった日朝関係の中で、腐敗しきった両班を横目に、欧米列強のアジア進出と李朝の現状を直視する若者達が現れたのです。彼ら中堅青年官僚達 ── いわゆる「開化派」(「独立党」共呼ばれ、1874年頃結成)は、日夜権力闘争に明け暮れ、自国(李朝)が置かれている現状を省みない両班支配体制と、荒廃しきった国土を憂え、更に、いずれは列強の植民地になるだろうと言う危機感の中、その活路を新興国・日本に求めたのです。

 

「開化派」は、国王・高宗の許可を得て度々日本を訪れました。そして、日本に着いた彼らが目の当たりにしたものは、今迄、「中華」である支那や「小中華」であるコリアよりも「格下」であるとして、侮蔑していた日本の驚くべき発展ぶりでした。そこには、李朝には無いありとあらゆるものがあったのです。たかだか十年前は髷(まげ)を結い、刀を差していた日本人が、今ではアジア一の近代国家へと変貌を遂げている・・・。彼らは日本の現実を目の当たりにした事で、初めて「近代化」の何たるかを知ったのです。そして、彼ら「開化派」は、旧態依然たる「守旧派」が相も変わらず清朝を頼るのに対して、新たなパートナーとして新興国・日本を選んだのです。

 

 朝政府内での開化・守旧両派の抗争は次第に激しくなっていきました。守旧派は清朝の「属国」としての立場を堅持するとして、清朝より派遣されているメルレンドルフ等の駐箚官に国政全般の監督を委ね、益々、清朝への依存を深めていきました。一方、開化派は金玉均(キム・オクキュン 写真)をリーダーに、福沢諭吉・井上馨・大隈重信・渋沢栄一・大倉喜八郎・榎本武揚・副島種臣・内田良平等、日本政財界のキーマン達と親交を深め、日本の支援によって李朝の政治体制を変革する ── 李朝版「明治維新」を断行しようとしたのです。

 

1884(明治17)年12月4日(甲申10月17日)夕刻、高宗の内諾と、日本の軍事支援を受けた金玉均率いる「開化派」は遂に決起しました。世に「甲申(カプシン)政変」と呼ばれるクーデターです。彼ら「開化派」が目指したのは、日本同様に国王を中心に戴く近代立憲君主国家でした。その為、守旧派による国勢専横と、清朝の政治軍事全般に渡る強圧的な干渉に強い不満を持っていた高宗は「開化派」に大きな期待を持っていました。電撃的に断行されたクーデターは日本の2.26事件とは違い、「玉」である国王を手中にしていました。その点、「開化派」にとっては非常に有利だったと言えます。しかし、運命は皮肉なものです。高宗の后である閔妃(明成皇后)等の邪魔、高宗の心変わり(弱気)、そして、最も恐れていた清軍の出動によって、事態は一気に流動化したのです。

 

「開化派」を支援していた日本でしたが、いざ、クーデターが断行されると二の足を踏みました。その最大の誤算は清仏戦争(清朝と仏印=ベトナムとの戦争)の決着でした。「開化派」・日本政府双方共、清仏戦争の継続を望んでいました。清仏戦争さえ続いていれば、いかに清軍とて南北(ベトナムと朝鮮半島)双方に派兵はしないだろうと踏んでいたからです。しかし、清仏戦争の決着によて、清朝はクーデターの漢城(ソウル)に軍を出動させたのです。クーデターには日本軍も開化派兵士として加わっていました。その日本軍と清軍が王宮を舞台に対峙してしまったのです。清朝との前面武力衝突を何としても回避したい日本は、ここでクーデターからの「撤退」をしてしまったのです。日清戦争(1894年)を遡る事十年。日本は、依然腐ってもなおアジアの「超大国」として君臨する清朝との全面戦争はやはり避けたかったのです。富国強兵に邁進しているとは言え、未だ近代化の途上にあった日本にとっては、致し方ない選択だったと言えます。12月7日、「開化派」による新政府は崩壊、親清・事大主義者(守旧派)による臨時政府が樹立され、「維新」は僅か3日で幕を閉じたのです。

 

うして、コリア版「明治維新」は失敗に終わりました。その結果、李朝は今迄以上に清朝の干渉を受ける事となり、「開化派」が目指した「自主独立」の夢は遂に潰(つい)え去ったのです。その後、コリアは日本・清朝・ロシア三国の係争地となり、日清戦争(1894)・日露戦争(1904~1905)を経て、1910(明治43)年、遂に「日韓併合」へと至るのです。

 

一方、クーデター失敗後、日本に亡命していた「開化派」のリーダー・金玉均は、清朝の北洋大臣・李鴻章(「甲申政変」後の朝鮮半島管理監督最高責任者。後に日清戦争講話交渉時、清国全権)との対話を求めていました。1890(明治23)年、彼は李鴻章の養子で駐日公使として日本に赴任した李経方を通じて、「日本・朝鮮清朝三国の連携を以て、南下政策を進めるロシアと、アジアを蚕食する欧米列強勢力に対抗すべきだ」との持論を主張しています。国を逐われて尚、祖国の将来を憂えた「愛国の士」金玉均でしたが、「運命の女神」は彼に過酷な運命を課したのです。クーデターの恨みが消えぬ「守旧派」は、彼を日本官憲の影響が及ばない上海に誘い出し、1894(明治27)年3月28日、刺客・洪鐘宇(ホン・ジョンウ)をして暗殺、翌4月、屍体を斬り刻んだ上、「謀反大逆不道の罪人玉均、当日楊花津頭にて時を待たず凌遅の斬に処す」と書いた木札を掛けて、漢城市内に晒(さら)したのです。金玉均、享年43歳。誰よりも国を愛し、誰よりも国を憂えた志士の、それはあまりにも早過ぎる死でした。

 

余談(つれづれ)

 

玉均に対する屍体凌遅刑が執行された翌5月、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。それを契機に日清両国が朝鮮半島に派兵 ── 日清戦争へと発展したのです。もし、李朝が「開化派」を受け入れ、自力で維新近代化の道を歩んでいたなら ── 金玉均が「首相」として政治改革を主導していたなら ── コリアはもっと早く清朝から「独立」した事でしょう。ひょっとしたら、朝鮮半島を舞台にした日清戦争も起きなかった事でしょう。いや、コリアが日本に伍す近代国家になっていたら、「日韓併合」もなかった事でしょう。そう言う意味では、コリアは自らの手で自らの首を絞めたとも言えます。

 

 

リアは、伝説の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)時代から日韓併合に至る長い歴史の中で、二人の「皇帝」を輩出しました。李氏朝鮮 改め 大韓帝国の高宗(第26代 徳寿宮李太王:在位 1863-1907)・純宗(第27代 昌徳宮李王:在位 1907-1910)父子です。しかし、この二人の「皇帝」も、コリア人の憎むべき存在 ── 「日帝」(日本帝国主義)李朝を「独立」させなかったとしたら、この世に存在し得なかった訳で・・・「歴史」とは、何とも皮肉なものです

 

 

参考文献

 

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • 歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

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