朝鮮総督府に見る「日帝」の功績

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

治43(1910)年の「日韓併合」から、昭和20(1945)年の「光復」(独立)に至る日本の朝鮮半島支配を、コリア人は「日帝(イルチエ)36年支配」と称して、「この世の生き地獄」であったかの様に主張します。しかし、本当にそうだったのでしょうか? 今回は、彼らコリア人が忌み嫌い、そして「憎んだ」朝鮮総督府(上写真)の功績について書いてみたいと思います。

くコリア人は、「日帝支配」 ── とりわけその先兵だった朝鮮総督府を、「悪の権化」の様に扱います。彼らコリア人に言わせると、「日帝の七奪」(国王・主権・土地・資源・国語・人命・姓名の七つを奪ったと言う)を実行した張本人で、朝鮮半島を荒廃させ、コリア人を塗炭の苦しみに陥れた事になるのですが、これはどう見ても明らかな歴史歪曲です。国王(国家元首)・主権(国家主権)・土地(領土)は、日本による強制的併合ではなく、両国の合意の下での併合でした。又、資源の奪取(搾取)については、併合時、とりたてて資源と呼べる資源が朝鮮半島には存在しませんでした。資源と呼べる資源が無かったのに、どうして、資源の奪取が出来たのでしょうか? 不思議で仕方ありません。更に、国語(朝鮮語)の「禁止」ですが、実際には朝鮮語の禁止はされてはいません。例えば、玄永燮(ヒョン・ヨンソプ:「日本人以上の日本人」と呼ばれた)・朴煕道(パク・ヒド:「三・一独立運動」時の民族代表の一人)等が南次郎総督に、「朝鮮語使用の全廃」を建議した際、南総督はむしろ極力反対したと言われています。そして、コリア人は触れたがりませんが、戦後、「コリア人の誇り」と呼ばれた、あの「ハングル」をコリア人に普及させたのは、「国語を奪った」と言われている朝鮮総督府だったのです。今でこそ、「コリア人の誇り」と呼ばれる「ハングル」は、併合当時、両班(ヤンバン)に代表される知識人階級からは、「アムクル」(女文字)・「アヘックル」(子供文字)等と蔑(さげす)まれ、一般コリア人には全く普及していなかったのです。(何せ、李朝第10代国王・燕山君(ヨンサムグンが「ハングル教授学習禁止令」を出し、第11代・中宗(チュンジョン)は「諺文庁」を閉鎖したくらいですから、推して知るべしです) この様に、「日帝の七奪」が歴史歪曲である事がお分かり頂けた事と思います。これらは、戦後、韓国においては、李承晩(イ・スンマン)・初代大統領の、北朝鮮においては、金日成(キム・イルソン)・国家主席の徹底した「反日(コリア民族賛美)教育」による所が大きいのです。そして、多くのコリア人が、未だその「呪縛」から抜け出す事が出来ないでいるのです。

て、いよいよ「本題」である朝鮮総督府の「功績」について書いてみたいと思います。まず第一に知って頂きたい事は、日本は朝鮮半島を「搾取」したどころか、反対に日本本国から莫大な資金を朝鮮半島に投資したと言う事実です。「日韓併合」以来、年に一千数百万円から二千万円(当時の金額)もの一般経費補充金が、朝鮮総督府特別会計に補填され、その財政運営を支え続けたのですが、これらの資金はコリア人から搾取したものではなく、日本の国家予算(とどのつまりが、日本国民から徴収した「血税」)や、日本の金融市場で調達した公債だったのです。当時、帝国主義の時代、世界中のどの植民地政策を見ても、植民地(厳密に言うと、朝鮮半島は日本の植民地ではないが)に対して本国政府が莫大な資金を投資した例は希有でした。多くは、本国政府が植民地から利益を吸い上げていた訳で、日本の植民地政策の「特異性」とも言えます。つまり、コリア人が言う所の「搾取」は、「真っ赤な嘘」だった訳です。

二に、朝鮮半島のインフラを整備したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。戦後、韓国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる国家の復興と高度経済成長を自慢しますが、その多くは、「日帝時代」に整備されたものなのです。朝鮮半島全土に張り巡らされた道路網・鉄道網・港湾施設等の交通インフラは、朝鮮総督府時代に、日本から投資した資金を元手にして建設整備されたのです。そして、その多くが現在でも利用されているのです。(以前、「漢江の奇跡」時代に突貫工事で建設された橋が自動車の重みで落下した事故があったが、それ以前 ── 「日帝時代」に建設された橋は今尚、現役で活用されている) この交通インフラの整備によって、「陸の孤島」同然だった町や村が接続され、人や物資の往来が活発となり、その結果、朝鮮半島の近代化が加速したのです。又、鉄道網や都市整備が進むと、必然的に電力の確保が必要となります。そこで、炭鉱・砂防・治水・電力・通信網(電信電話施設)の開発整備をも進んだのです。

三に、食料の自給体制を確立したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。朝鮮半島は李朝末期、山は至る所、「禿げ山」。天候不順・農法の稚拙さ(粗放農業)と、両班等による度重なる過酷な搾取によって農民達は労働意欲を無くし、農地の荒廃が進んだのです。元々、粗放農業で収穫率が低かった(「天水田」で、三年一作)所へ持ってきて、農地の荒廃が進んだので、朝鮮半島は現在の北朝鮮同様の、慢性的な食糧不足 ── 飢餓状態に陥っていたのです。そこで、朝鮮総督府は、治山・治水工事を筆頭に、荒れ地の開墾・干拓・灌漑用水の整備と農業インフラの整備をし、更に、粗放農業から集約農法へと転換させ、冬季等の農業閑散期には在宅副業等を奨励し、農民の意識と生活水準の向上を図ったのです。その結果、慢性的な食糧不足に苦しんでいた朝鮮半島は米の増産に成功し、遂には内地(日本本土)へ「輸出」する迄になったのです。

後に、悪名高き「創氏改名」について書いてみたいと思います。「創氏改名」と言うのは、コリア人の名前 ── つまり「朝鮮名」を、「日本名」に改名させたと言われるものです。しかし、実際の所、「創氏改名」は朝鮮総督府による「強制」では無く、コリア人側からの要望でなされた措置で、「自己申告」制だったのです。(「創氏改名」と言い、「日韓併合」・「日本語教育」と言い、コリア側から発議されたものが、「日帝」による強制に変わってしまうのですから、何とも釈然としません) この「創氏改名」は内地に出稼ぎ労働に来たコリア人が、コリア人である事で、待遇等で「差別」されない様に、「日本名」を名乗る事を許可した措置なのです。そして、「創氏改名」は、日本とコリアが「同文・同種」で「同祖」であると言う思想(「日韓併合」・「日鮮合邦」の根本理念)に基づいたもので、現に、朝鮮半島と同様に、総督府が設置されていた台湾に対しては、「創氏改名」は許可制で、その審査基準も極めて厳しいものでした。又、「創氏改名」がコリア人を「人種差別」する為になされた措置だと主張する人がいますが、これも違います。例えば、朝鮮半島出身の生粋のコリア人であるにも関わらず、帝国陸軍に入隊し、遂には「陸軍大将」と言う陸軍最高の地位にまで登りつめ、最後まで「帝国軍人」として自らを全うした人もいました。もし、日本がコリア人に対して政策としての「人種差別」をしたと言うのであるならば、この逸話はどう解釈すればいいのでしょうか?(日本人であっても、「陸軍大将」にはおいそれとはなれないものです)

上、簡単に見てきましたが、如何だったでしょうか? コリア人によって「悪の権化」 ── 「日帝36年支配」の代名詞とされた朝鮮総督府。しかし、その実態は、朝鮮半島の近代化に多大な貢献を果たした存在だったのです。コリア人が、「負の遺産」としての植民地支配を声高に叫ぶのも結構ですが、「正の遺産」としての朝鮮総督府による朝鮮半島近代化の功績も認めるべきではないでしょうか? それが「フェア」な物の見方と言うものだと思うのですが・・・。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

本の過去の戦争責任でよくやり玉に挙げられるものに、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」があります。「南京大虐殺」については多分に支那の「歴史捏造」の所産であると私自身思っていますが、今回は、もう一方の「従軍慰安婦」問題について考えてみたいと思います。

 

「従軍慰安婦」。日本軍が戦時中、コリア人や支那人等の若い女性を組織的に連行して、日本兵の溜まっている「性欲のはけ口」にしたと言われているもので、現在も保障を求めるコリア人女性が日本政府を相手取って損害賠償請求裁判を求めています。しかし、はっきり言いましょう。「従軍慰安婦」等と言うものは、当時、存在し得なかったと。それは、なぜか? まず、「従軍慰安婦」なる用語は戦後生まれたもので、当時は存在しなかったからです。又、「従軍慰安婦」問題で、日本の進歩的文化人や支援者達は「女子挺身隊」と混同しますが、「女子挺身隊」は軍需工場等で、落下傘(パラシュート)や兵器の生産に従事した女性達の事であって、決して、「売春」を生業(なりわい)とはしていませんでした(私の伯母も「女子挺身隊」だった)。そして、決定的な事ですが、「従軍慰安婦」は明らかに歴史捏造の産物だと言う事です。

 

成3(1991)年末、かの『朝日新聞』が「従軍慰安婦」問題で徹底的な糾弾キャンペーンを展開した事がありました。この時、吉田清治(よしだ-せいじ)氏の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)の「慰安婦狩り」の問題が、

 

「済州(チェジュ)島にて軍の協力により、慰安婦狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した」

 

と言う記事として掲載されました。しかし、その後、千葉大学の秦郁彦(はた-いくひこ)教授の実地調査では、吉田氏の著書は「捏造」である事が発覚(その報告は『正論』1992年6月号 に詳しい)。又、『週刊新潮』1995年1月5日号 の取材結果でも、事実無根である事が判明。当の著者も「あれは創作だった」と認めたのです(記事捏造がお得意な、天下の大新聞『朝日新聞』の面目躍如ですね>笑)。 では、世に言われる「従軍慰安婦」は全く存在しなかったのでしょうか? 実は存在していたのです。しかし、その実態は、戦後言われるようになった「従軍慰安婦」とは全く違うものだったのです。

 

時中、「従軍慰安婦」は存在した。この一語を以て、進歩的文化人や支援者達は小躍りするかも知れませんが、それは彼らの早合点と言うものです。私が言いたいのは、民間業者が日本軍向けに行っていた「売春」は存在しただろうが、日本政府・軍が「国策」として、「従軍慰安婦」に関与した事実は無いと言う事です(両者を混同すべきではない)。まず、当時 ── 戦後になって「従軍慰安婦」と呼ばれる事となる女性達の多くが、大和撫子(やまとなでしこ) ── 「日本女性」だったと言う事実です。そして、彼女達は「強制連行」されて来た訳ではなく、自ら「志願」してその世界に飛び込んだと言う事実です。よく、「従軍慰安婦」と言うと、軍の管理する施設に「隔離」され、外界とは接触を許されずに、来る日も来る日も、日本兵の相手をさせられたと言う事になっていますが、これも虚偽です。彼女達は、食べ物にも事欠くご時世の中、「三度の飯」が保障される「従軍慰安婦」の世界に自ら飛び込みましたが、軍の管理する施設に隔離等されてはいませんでした。又、時として、「客」として通ってくる常連兵士と街に出て、ご馳走を飲み食いし、ダンスを踊ったりして楽しんだ共言います。こう言う証言に接すると、当時の「従軍慰安婦」達と、現代の風俗嬢達と、一体、待遇で何処が違うのか?と考えざるを得ません。

 

かし、それでも、進歩的文化人や支援者達は「従軍慰安婦」はあった!! 「日本軍による強制連行」はあった!! と声高に叫ぶでしょう。しかし、戦後半世紀を経た今の今迄、何一つ、「日本軍による強制連行」を裏付ける明確な資料は見つかってはいません。あるのは、損害賠償を求める「被害者」達の証言だけ。日韓両国間での戦後賠償が決着済みな事もありますが、証拠資料が無い現状では、たとえ裁判をしたとしても、裁判と言う裁判になる訳もなく、事態がより混迷・複雑化するだけです。又、当時は、「公娼制度」 ── つまり「売春」が公認されていた時代です。当時の日本同様に、朝鮮半島の貧村の食うや食わずの家庭で、親が自分達の娘達を「身売り」した事もあったでしょう。とすると、親に「身売り」された共知らない女性が、女衒(ぜげん:遊女等の口入れ手引きを生業とする仲介業者)を日本軍の差し向けた「強制連行」の実行者と、思い違いをしたとしても何ら不思議では無いのです。

 

後に、「従軍慰安婦」を声高に叫ぶコリア人に問いたいと思います。コリアでは中華秩序 ── 朝貢制度によって、宗主国・支那と属国・コリアと言う関係が成立して以来、歴代コリア王朝は、歴代支那王朝に対して、「貢女」(コンニイ)と呼ばれる若い女性 ── つまりは「宮廷慰安婦」を「献上」しており、コリアは「貢女」の名産地として有名でした。又、李朝時代には、「妓生庁」と言う役所を設置し、国家管理下に、「妓生」(キーセン)を育成していました。そして、この伝統は、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が推進した国策としての売春観光政策(キーセン・ツアー等) ── 「売春立国」や、北朝鮮の最高指導者・金正日(キム・ジョンイル)肝煎(きもい)りの「喜び組」として脈々と受け継がれているのです。こう見てくると、コリアにおける「貢女」・「妓生」・「売春立国」政策・「喜び組」と、「従軍慰安婦」の何処がどう違うのか? と考えざるを得ません。この点を明確にしないまま、日本の「従軍慰安婦」を殊更(ことさら)問題にするコリアの不条理こそ、問題ではないでしょうか?

 

 

国人が日本の「従軍慰安婦」問題を声高に叫ぶのも結構だが、朴正煕政権時代、東ソウルの漢江(ハンガン)べりの高台に、通称「ウォーカーヒル」と呼ばれる「在韓米軍将兵慰安総合遊興村」を設置した事実を知っているのだろうか? もし、韓国女性を「性の道具」としたとして日本人を糾弾するのであるならば、アメリカ人に対しても同様に糾弾の矛先を向けるべきではないだろうか? アメリカ人はよくて、日本人はけしからん!! と言うのであるならば、それは、日本人に対する韓国人の「人種差別」とは言えないだろうか?

 

参考文献

 

  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。