関西歴史事件簿 本能寺の変

投稿日: 2013年5月3日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀が

キレた? 謎を呼ぶ謀反の真相 

 

明智光秀(右)と織田信長像(左)

明智光秀(右)と織田信長像(左)

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。

事件現場の風景

 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。

 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。

 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。

 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。

 旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。

現場周辺の風景

 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。

 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。

そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。

 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。

事件前の風景

 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。

 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。

 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。

 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。

 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。

天正10(1582)年6月2日午前4時ごろ、中国地方の毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉の援軍要請もあり、京都・本能寺に宿泊中の織田信長は外の騒がしい物音で目が覚めた。

 最初に異変に気付いたのは本能寺門前にいた信長の家臣、村井貞勝といわれている。貞勝も信長も最初は誰かのけんかかと思っていた。

 だが、多くの旗が寺のまわりを取り囲んでいることに気づき、近くにいた小姓の森蘭丸に「謀反? 誰のたくらみか」と聞くと、蘭丸は「旗の家紋がキキョウ。明智光秀のようです」と答える。

 蘭丸はすぐに寺を脱出することを信長に進言したものの、1万3000の明智軍に対し「多勢に無勢」を悟った信長は、「是非に及ばず」と一言。弓を持ち出した。

×  ×  ×

 本能寺の変の1カ月前の5月、かつては戦国最強とうたわれた武田軍を天目山で壊滅させ、四国の長宗我部軍、北陸の上杉軍は信長に対抗する力はなく、中国の雄・毛利軍とも優位に戦いを進めていた。

 すでに天下統一も目前というところで秀吉から援軍要請。低湿地に囲まれてなかなか落とせない備中高松城に4万の毛利輝元軍が接近しつつあるという状況に、おそらく信長は毛利壊滅のチャンスと思ったのだろう。

 信長が自ら備中へ向かうため光秀に先陣を務めるように命令する。このとき信長が本能寺に連れてきた家臣は20~30人とも160人ともいわれている。

 当然、信長本隊の警護が手薄なことは承知していた明智軍は空が白みかけたころ、寺に向けて発砲すると同時に明智光春らが四方から一斉に境内になだれ込んだ。

 弓を持って応戦した信長だったが、数本の矢を撃ったところで弓が折れる。すると今度は薙刀(なぎなた)に持ち替えて奮戦するも、左肩に銃撃を受けるなどしたため、ついに断念する。

 信長は女衆に逃げるように指示した後、奥にこもって「誰も入れさせるな」と寺に火を放つよう蘭丸に指示。自刀して果てた。

 これに対し、村井貞勝は本能寺から北約1キロ離れた妙覚寺に滞在中の織田信忠に光秀の謀反を報告。信忠は寺を出て、隣の二条御新造で光秀勢を迎え撃つことを決意する。

 だが光秀の大軍にはかなわず、城に火をつけて自刃してしまう。以降、織田家は衰退の道をたどる。

 天下統一を目前にした信長の油断が招いた光秀のクーデター。わずか数時間で日本の権力構造が一変する日本歴史上ショッキングな事件となった

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