イザベラ・バード『朝鮮紀行』

投稿日: 2013年8月14日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

イザベラ・バード『朝鮮紀行』
Isabella L. Bird, Korea and Her Neighbours: A Narrative of Travel, with an Account of the Recent Vicissitudes and Present Position of the Country, 1898.
イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行-英国婦人の見た李朝末期』講談社学術文庫1340, 1998.

 イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) は英国の旅行作家で、1894年から1897年にかけて四度朝鮮を旅行した。

知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居しており、きわめて劣った地位にある。(p. 24)

政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。(p. 34)

朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである。(p. 40)

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。 (pp. 58-59)

外国人にとってはまったく安全である。舟を引いて急流をのぼっていく往々にして退屈な作業のあいだ、ロープをたぐるのはミラー氏と従僕たちにまかせて、わたしはいつもひとりで二、三時間土手を歩いたが、人里離れたところに出ても、あるいは村のなかを通っても、出会って不愉快なものといえば、おもに女性の示す不作法な好奇心くらいのものだった。(pp. 112-113)
清風にかぎらずどこにおいても、一般庶民は、好奇心はすさまじいものの粗野ではなく、わたしたちが食事をするのを眺めるときでもたいがいある程度はなれて見物していた。しかし庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い無作法な行為を何度も受けた。わたしの居室のカーテンを勝手に開けて中をのぞき、やめていただけないかと慇懃に頼んでいる船頭に威嚇する者までいた。 (p. 128)

非特権下級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から苛酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。 (p. 138)

女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰掛、わたしの服を調べ、ヘヤピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじまでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォンに三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p. 167)

長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮の農業はある程度むだが多く、しまりがない。(p. 211)

鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。 (p. 307)

出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。 (p. 425)

小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞で打たれる。(p. 433)

少女向けのこの国独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は一〇〇〇人にひとりと推定されている。 (p. 439)

狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。(pp. 489-490)

まとめとして、わたしはあえてつぎのように提言する。朝鮮の国民の環境は日本もしくはロシアの援助を得て漸進的に改善されるはずである。 (pp. 497-498)

朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし、職位は商品として売買される。 (pp. 556-557)

わたしは一八九七年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。

 Ⅰ 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
 Ⅱ 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。 (p. 563)

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イザベラ・バードの日朝中

 イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) はイギリスの旅行家・探検家で、世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。このうち日本・朝鮮・中国の旅行記は、平凡社の東洋文庫で読める。ここでは、これら三国の社会や国民に関する評価を抜き出してみた。


イザベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社, 1973年.
Isabella L. Bird, Unbeaten Tracks in Japan, 1885.

 バードは1878(明治11)年6月に来日、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、アイヌ人の村落を調査した。バードにとっては、初めてのアジア地域での旅行だった。日本人に対しては、容姿の貧弱さ、礼儀正しさ、山村の貧困、治安の良さに関する記述が目立つ。不道徳あるいは堕落しているという評価は、よくわからないが、キリスト教徒でなくイギリス紳士のようでもないということかもしれない。当時のヨーロッパ人としては当然だが、キリスト教を最高の価値体系と考えている。アイヌ人については、正直さ、物静かさ、深酒、容貌の醜さについての記述があるが、ここでは割愛した。
 なお、
欧米から見た日本に別訳を示した。原文はPre-modern East Asia Seen by Westernersにある。

上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者がひとりもいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもっていた。(6-7頁)
日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。(14頁)

私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。(48頁)

私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。(86頁)

いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。(86頁)

見るも痛々しいのは、疥癬、しらくも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹など嫌な病気が蔓延していることである。村人達の三〇パーセントは、天然痘のひどい跡を残している。(87頁)

そこで私はキサゴイ(小佐越)という小さな山村で馬を交替したときは、ほっとした。ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。(93頁)

仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿を私は見た。幼い子どもたちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。(98頁)

ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。(117頁)

ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。(117頁)

彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。(124頁)
日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。(125頁)

日本人は子どもに対して全く強い愛情をもっているが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいることは良くないことだと思う。彼らは風儀を乱し、嘘をつくことを教えるからだ。(136頁)

家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。(148頁)

吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。(153頁)

おいしい御馳走であることを示すために、音を立てて飲んだり、ごくごくと喉を鳴らしたり、息を吸いこんだりすることは、正しいやり方となっている。作法ではそのようなことをするようにきびしく規定してあるが、これは、ヨーロッパ人にとって、まことに気の滅入ることである。私は、もう少しで笑い出すところであった。(164頁)

こでも警察は人びとに対して非常に親切である。抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。(183頁)

警察の話では、港に二万二千人も他所から来ているという。しかも祭りに浮かれている三万二千の人びとに対し、二十五人の警官で充分であった。私はそこを午後三時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。(196頁)

朝の五時までには豊岡の人はみな集まってきて、私が朝食をとっているとき、私は家の外のすべての人びとの注目の的となったばかりでなく、土間に立って梯子段から上を見あげている約四十人の人々にじろじろ見られていた。宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにしてるのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」。そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!(199頁)

私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。(207頁)

私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。(211頁)

日本の女性は、自分達だけの集まりをもっている。そこでは人の噂話やむだ話が主な話題で、真に東洋的な無作法な言葉が目立つ。多くの点において、特に表面に現れているものにおいては、日本人は英国人よりも大いにすぐれている。しかし他の多くの点では、日本人は英国人よりはるかに劣っている。このていねいで勤勉で文明化した国民の中に全く溶け込んで生活していると、その風俗習慣を、英国民のように何世紀にもわたってキリスト教に培われた国民の風俗習慣と比較してみることは、日本人に対して大いに不当な扱いをしたことになるということを忘れるようになる。この国民と比較しても常に英国民が劣らぬように《残念ながら実際にはそうではない!》英国民がますますキリスト教化されんことを神に祈る。(212-213頁)

しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいない。(249頁)

日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。(292頁)

藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは人情の美しいところであると感じた。(340-341頁)


イザベラ・バード(金坂清則訳)『中国奥地紀行』平凡社, 2002年.
Isabella L. Bird, The Yangtze Valley and Beyond: An Acount of Journeys in China, Chiefly in the Province of Sze Chuan and Among the Man-tze of the Somo Territory, 1999.

 バードは三度目の朝鮮訪問である1895年11月のソウル・平壌間旅行の後、12月に上海に渡った。上海から揚子江を万県まで遡り、さらに陸路を保寧府、成都まで進んだ。そこから山岳地帯を梭磨まで進み、チベット人社会を調査した。帰りは成都から揚子江を重慶経由で下り、1896年6月上海に戻った。中国社会の活力と公正さを高く評価しているが、最悪の朝鮮社会を見た直後だったからかもしれない。他には中国人の冷酷さや国際情勢への無知に関する記述が目立つ。日朝に比べ外国人嫌いの感情が強く、バード自身も被害にあっている。チベット人に対する記述は割愛した。
 原文は
Pre-modern East Asia Seen by Westernersに示した。

中国のほかの地域の住民についてもいえることなのだが、揚子江流域の住民の在り方を我々が評価するに際しては、以下の諸点をはっきりと認めることが大切である。その一つは、わが西洋思想が対面しているのが、野蛮さとか堕落した道徳観ではなく洗練された古代以来の文明であるということである。これは衰退などしていないし、不完全ながら我々が尊敬し感銘さえして当然のものを含んでいる。(1巻, 38頁)

中国人には、自らの大変狭い世界に生きる保守的で順応性もある農民と、きわめて国際的で、成功を収めている華僑の両方が存在する。そしてこの両者の存在や、孝を重んじること、粘り強さ、機知に富むこと、結束力、法と文学を尊ぶ心などが力になって、中国人はアジア諸国の先頭に立ってきている。(1巻, 40頁)
中国人は明敏だし機敏でもあるが、保守的で、何事についてもすぐに感化されるということがない。商売の才には舌を巻いてしまう。生まれながらの商売人である。(1巻, 41頁)

本書で以下、ある程度敷衍したいと考えているが、杭州や漢口のような大都市から四川省の商業都市に至るまでの揚子江流域において旅行者が強く印象づけられることとしては、ほぼ次のようなことが挙げられる。すなわち、中国人の社会組織や商業組織がしっかりしていること。耕作技術がすぐれ丹念に耕作されていること。目的に対する対処の仕方が適切なこと。(1巻, 41-42頁)

かし、中国人の並外れた活力や適応性・勤勉さは、一面では「黄禍」とみられるけれども、他面では、黄色人種の希望の源ともみることができる。つまり、国民性を失わないままで完全にキリスト教化するならば、この帝国には東アジアにおける支配的勢力を保つ可能性があるのである。(1巻, 42頁)
中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。(1巻, 42頁)

〈文人階級〉の多くの人々の無知さ加減はひどい。それは宿坊での会話の中にとめどもなく現われてくる。軍のある高官は、劉を頭とする黒旗軍[清末の将軍劉永福が創設した軍事組織]が台湾から日本人を駆逐したとか、劉が神々に誓った誓いと祈りが功を奏して台湾海峡が大きく口を開いたとか、ロシア、イギリス、フランス、日本の海軍が戦渦に広く巻き込まれ、やられてしまったとか言って憚らなかった!(1巻, 274頁)

中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲で、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心であるというものである。(1巻, 280頁)

中国人が慈善を、無欲で行うとか〈個人的な〉親切心や厚意から行うのでないことは明白である。彼らの徳行は集団としての人間のために大規模になされ、個人的な問題は見落とされてしまう。そこでは、愛や感謝の念を生むことになる、慈善を与える者と受ける者との間の個人的で健全なつながりや個人的な克己は度外視される。(1巻, 296頁)

耕作の見事さといったらなく、入念な手入れによって雑草はほとんど生えていなかった。避難村のある崖の麓まで階段状に耕作され、幅がわずか一八インチ[四五センチ]しかないような岩棚にさえも作物が実っていた。その日の旅にあっては、人が横になれるほどの空き地は道の上のほかには、全くなかった。(1巻, 309頁)

彼女たちの質問はまことに軽薄だったし、好奇心は異常なまでに知性を欠いていた。この点で日本人の質問とは好対照だった。ここには、していることに目新しさも多様さもなく、食べることと書くことだけをしている人間を何時間にもわたってジロジロ見ることに費やすという、大人としての異常なまでの無神経さが見てとれた。(1巻, 324頁)

群集はどんどん増え、囃し立てたり怒鳴ったりして、どんどんやかましくなった。口々に「〈洋鬼子〉(外国の悪魔)!」とか「吃孩子[子供食い]!」と叫ぶ声がどんどん大きくなり、怒号と化していくのがわかった。狭い通りはほとんど通れなくなった。私が乗った轎は何度も何度も棒で叩かれた。泥や嫌な臭いのするものが飛んできて命中した。ほかの連中よりも大胆なのか臆病なのかわからないが、一人の身なりのよい男が私の胸を斜めに強打した。叩かれたところはみみず腫れになった。後ろから両肩を強打する連中もいた。わめく輩は最悪だった。激昂した中国の暴徒だった。(1巻, 337頁)

信じられないような汚さ、古期英語を用いないと表せないようなひどい悪臭、薄汚なさ、希望のなさ、騒がしさ、商売、そして耳障りな騒音は中国の都市に共通する特徴であるが、それにしても渠県の騒音は、耳をつんざかんばかりだった。(1巻, 371頁)

中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。そんな連中が日本人を、何と、「野蛮な小人」と呼ぶのである!(1巻, 381頁)

役人の給与が「生活賃金」ではないような制度の下でなら、多額の横領が起こる結果になるが、中国はそうでない上に重税国家でもない。また国民も役人の管理の下で援助を全く受けられないわけでもない。この上なくひどい腐敗も存在はするが、世の中全般の安全と秩序は保たれており、この二世紀近くの間、中国の富と人口は増加してきてる。(1巻, 388頁)

この制度は評判が悪いのは確かだが、トルコやペルシャ、カシミール、朝鮮を[私のように]数年にわたって旅したことがある人なら、中国の人々が虐げられた国民などではさらさらないことがわかって驚くことになる。また、現制度下にあってさえ、賄賂はあるものの税は軽く、働けば金になり、理にかなった自由もかなりあることがわかって驚くことになる。(1巻, 396頁)

大勢の薄汚い役人が何もせずにぶらぶらしているといったことはなかった。この点は朝鮮の〈衙門〉とは異なっていた。私を困らす者はだれもいなかった。(1巻, 397頁)

私は、私の知る東洋のどの国の女性よりも中国の女性が好きである。彼女らには多くのよい素質があるし、気骨もある。もしこのような女性がキリスト教徒になれば、きっと完璧なキリスト教信者になるだろう。親切心にあふれているし、大変慎み深くもある。また、忠実な妻であるし、彼女らなりによい母親でもある。(1巻, 412頁)

出自や富とは全く関係なく、学問と文筆に通じていることだけが、男が公職に就き、名誉や利益を得る方法なのである。この点は、皇族の子息であれ、農民の息子であれ変わらない。だから、中国は実のところ世界で最も民主的な国家だといってよいのである。(1巻, 417頁)

私が伝えようとしたことが以上によってはっきり伝えられたとすれば、小学校における中国の教育が、道徳と義務と礼儀の指導に限定されていることは明白である。知力を育むような教育は欠落しているし、教養学習もない。従って、精神修業における調和が強く求められている反面、もし寛大で分別のある心を育て損なったならば、誇張が進み、歪曲が生じるのが関の山といったことになるにちがいない。(1巻, 423-424頁)

それから私たちには石が次々と飛んできた。飛び道具は手近にいくらでもあった。石の一部は轎や轎かきに当たったし、私の帽子にも当たって帽子が飛ばされてしまった。「外国の悪魔」とか「外国の犬」という叫び声のすさまじさといったらなかった。石が轎めがけて雨霰のように投げつけられた。そして一つの大きな石が私の耳の後ろに命中した。このひどい一撃によって、私は前に倒れ込み、気を失ってしまった。(2巻, 77頁)

病気の苦力は木の下に横たえられた。そこで私はその男の燃えるような額に濡れたハンカチを当ててやった。その時、中国人の潜在的な残虐性が現われた。あの実に愛らしい創造物である観音が広く崇拝されているのに、この連中には何の感化も及ぼしていないことがわかった。何も運んでいない苦力が五人いたので、一匹のラバの荷物を五人で分け合い、病気の男をラバに乗せるように提案してみたけれど、拒絶したのである。この十二日間、寝食をともにしてきた男なのに、である。しかも、お前達はこの男をここに置き去りにして死なせるつもりかと尋ねると、彼らはせせら笑いながら、「死なせればいい。もう何の役にも立ちませんぜ」と宣った。病気の男が懇願した水が目と鼻の先にあったにもかかわらず、それをやろうとさえしなかった。(2巻, 192頁)

書をここまで多少とも興味をもって読んでくださった方々は、四川省が少なくとも衰微しているとは、よもやお考えにはなるまい。商工業の活力は失われてはいないし、ジャンクの大群も港や直線流域で朽ちてなどいない。旅行者は行く先々で産業が盛んで、活気に満ち、物があふれ、完璧な労働組織も商業組織も存在するのを見かける。商業の信用貸しの水準は高く、契約は守られ、労働者は従順で教えやすく、知的でもある。またその賃金は保証されており、法も秩序もほぼ行き及んでいる。(2巻, 341頁)

総じて、平和と秩序、かなりの繁栄が、帝国全体に行き及んでいる。労働に対する報酬は確実にあるし、税金には賄賂がつきまとうが、それでも田舎ではめったに厳しくないし、都会ではきわめて軽い。中国の農民には「虐げられた」という表現が当てはまらないのである。完全な信教の自由もある。同業組合・商業組合やそのほかの組合は何にも邪魔されずにそれぞれの制度を維持している。結びつくことに対する中国人の天賦の才は何の束縛も受けない。実際のところ、中国人は実生活の面では世界で最も自由な国民の一つなのである!(2巻, 346-347頁)

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