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テキサス親父「キャロライン・ケネディ駐日米大使は頓知気だ」

投稿日: 2014年1月28日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

ハ~イ! みなさん。今回はキャロライン・ケネディ駐日米大使がツイッターで、「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と書き込んだ件を取り上げたい。
これに対し、日本の人たちが怒って、「イルカやクジラ漁は日本文化であり、昔から食してきた」
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画像クリックすると、YOUTUBEにハイパーリンクします。

「貴国で行われているハンティングはどうなのか」

「原爆投下や東京大空襲は非人道的でないのか」
「米海軍の訓練や実験が原因で小型鯨類が大量死している」

などと批判しているという。
当然だ、彼女は日本文化に無神経過ぎるぜ。少し前にも、安倍晋三首相の靖国神社参拝に声明を出し、批判されたばかりだろう。
小型鯨類を沖合から湾に追い込んで捕獲する漁は、和歌山県太地町で400年以上前から続けられている。
米国は1776年の建国だから、それよりも、はるかに昔から続いてきた独自の食文化といえる。
俺は以前、太地町を訪ねたことがある。人口三千数百人、静かで美しい漁業の町だった。
町長さんとも面会して、捕鯨とともに歩んできた町の歴史をじっくり聞いた。自然にダメージを与えないよう、漁はきちんと配慮して行われていた。
牛を食べるのも、小型鯨類を食べるのも同じだ。町民が生きるために漁をするのは問題ないはずだろう。
太地町のイルカ漁をめぐっては、数年前、漁を隠し撮りして批判的に描いた映画「ザ・コーヴ」が話題となった。コソコソ隠れるなんて女々しい奴らだ。太地町の善良な人々を貶めて、泥を塗る行為というしかない。
小型鯨類の追い込み漁は、デンマークのフェロー諸島でも行われている。
ところが、反捕鯨団体は、日本ばかりを継続的に批判している。ネットなどを見ていると、海岸一面が血で赤く染まったフェロー諸島の写真に「Taiji」と説明している、ひどいものもあった。
許せないぜ。 ともかく、ケネディ氏が駐日米大使になると決まったとき、多くの日本人は喜んでいたが、俺は「名前や見た目で判断するなよ」と注意しておいた。 それが現実になった。なぜなら、彼女は民主党なんだ。米国の民主党は信用できないぜ。

米国の民主党は信用できないぜ。

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小野田寛郎少尉の「私が見た従軍慰安婦の正体」正論から

投稿日: 2014年1月28日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

 

小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

 

私が見た従軍慰安婦の正体

「正論」一月号より

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。


 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

 ◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。


難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。

 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。


 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。


 ◆どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。


 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。


 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。


「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

 ◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。  私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。


「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。

 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。


 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。


「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

「正論」一月号より

核融合炉の実現に向け、超電導型核融合実験装置「JT―60SA」の建設が、日本原子力研究開発機構の那珂核融合研究所で始まった。2019年の運転開始予定。

投稿日: 2014年1月20日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

 

世界初、日本が核融合発電所を建設、

2019年より電力供給開始!

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電気新聞 
http://www.shimbun.denki.or.jp/news/special/20131227_01.html

<関連>
日本が世界最大の核融合試験に成功、1億5000万℃臨界運転
自然科学研究機構・核融合科学研究所は9日の会見で、世界最大の超伝導核融合炉である大型ヘリカル装置を使った高温プラズマ生成実験で、プラズマの原子核(イオン)温度が8500万度、電子温度が1億5千万度をそれぞれ記録し、今までの研究記録を更新したと発表した。超高温にプラズマを加熱する運転方法の改善で、2011年に記録した最高温度8千万度を500万度上回った。マイクロ波の周波数をこれまでの77ギガヘルツから154ギガヘルツに倍増させ、これまで最高だった1億度を5千万度上回った。

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まもなく核融合発電が実現、1トンの水で80万人が電気使い放題へ
・「夢のエネルギー」核融合は実現目前、1トンの水から80万人都市が1年に消費する電力を供給
エネルギー革命 核融合発電が可能になれば世界のエネルギー事情は大きく変わる Carlos Barria-Reuters
どこにでもある水に含まれる水素からエネルギーを取り出す「核融合発電」は、世界各地の研究者たちが長年追い求めてきた夢の技術だ。世界のエネルギー市場、ひいては経済に大きな影響を及ぼすはずのこの技術の開発に、かなり近いところまで来ていると専門家は言う。1トン前後の水でサンフランシスコくらいの都市が1年間に消費する電力を生み出せるという。
モーゼスによれば、史上最大級の科学の進歩はすぐそこだ。研究者たちが目指しているのは核融合反応が連続して起き、投入したものよりも大きなエネルギーが発生する「点火」と呼ばれる段階だ。いったん点火にたどり着けば、エネルギーを電力に換えるのはそう難しくないだろうとモーゼスは言う。
詳細 ニューズウィーク 2013/11/19
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2013/11/post-3111.php

核融合プラズマ1時間持続可能に 原子力機構が新電源
日本原子力研究開発機構は、国際熱核融合実験炉(ITER)向けプラズマを維持するために必要な装置の電源を開発したと発表した。この成果により、従来技術に比べて360倍となる1時間にわたってプラズマを維持する環境づくりに成功した。原子力機構は日立製作所の協力を得て、碍子ブッシングを繊維強化プラスチック(FRP)の筒に絶縁ガスと一緒に封入した2重複合型絶縁ブッシングを世界で初めて開発。

釣り船「とびうお」の方が、ぶつかっていったという証言も・・ テロか?

投稿日: 2014年1月19日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

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護衛艦「おおすみ」にぶつかった釣り船「とびうお」には前科があった。
1ヶ月の免停を喰らってます。
平成6年広審第27号
プレジャーボートとびうおプレジャーボートおおとり衝突事件
言渡年月日 平成6年9月2日
審 判 庁 広島地方海難審判庁(吉澤和彦、養田重興、竹内伸二)
理 事 官 永松義人
原 因
とびうお-見張不十分、船員の常務(避航動作)不遵守(主因
おおとり-見張不十分、船員の常務(衝突回避措置)不遵守(一因)
http://www.maia.or.jp/pdf/06hs027.pdf

今回の自衛隊の護衛艦「おおすみ」との衝突事例も、
釣り船「とびうお」の方が、ぶつかっていったという証言も出てきています。
——–引用ここから——–
目撃したのは衝突現場の南西約1・4キロにある阿多田島で養殖業を営む宮下純さん(40)。15日午前8時前、自宅のある高台から南進するおおすみの右舷が見えた。その直後、沖合に浮かぶ猪子島の陰から、左舷後方に向けて白波を立てて近づく釣り船が出現した。
——–引用ここまで——–
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140118/dst14011817220004-n1.htm

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釣り船乗組員(前科あり)の証言以外は、

釣り船の方がクロであるということを

示しています。

あんな巨艦に白波を立てて近づくとか

バカかテロかどちらかでしかないでしょう

 

日経http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1801V_Y4A110C1CC1000/

日刊スポーツhttp://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20140118-1245878.html

今回の乗組員の素性を徹底調査されたい!

6管などによると、釣り船は「とびうお」(全長7・6メートル)で、船長の高森昶(きよし)さん(67)(広島市中区)と釣り客3人(同)が乗っていた。重体となっているのは高森さんと、釣り客の大竹宏治さん(66)とみられる。また、釣り客の寺岡章二さん(67)伏田則人さん(67)にけがはなく、2人は「おおすみの左舷中央部に衝突した」と話しているという。

http://ameblo.jp/typexr/entry-11752898726.html からシェア

 

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いいんですか?こんな人、都知事にして

投稿日: 2014年1月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

【都知事選】在日3世・舛添 要一【在日利権】
自民党が、反日売国集団の民主党と
政策が一致する人を推薦(・_・;)
———————————-
在日韓国商工会議所は…
舛添要一氏を講師に招いたセミナーを
平成22年1月27日に行った。
この中で舛添氏は
「金融機関は[低利で]
在日韓国人らにも融資すべきだ」
と強調した。
———————————-
実姉(北九州市在住)が生活保護受給。
北九州市役所に仕送り依頼されるが、
舛添要一氏は拒否。
(仕送りをしちゃえば生活保護の受給額が減るのでしょうか?)
平成4年(1992年)、
北九州市の担当職員が
「可能な範囲で
1万でも2万でもいいから
仕送りしてくれ」
と頼みに舛添氏の家を訪ねたが
追い返された(元市職員談)。
当時の舛添氏は
タレント学者として
テレビで稼いでおり、
億単位で不動産を買い漁っていた。
(週刊文春2007年10月4日号)
http://blogs.yahoo.co.jp/himehachatora/47788804.html?from=relatedCat

天孫降臨の意味するもの

投稿日: 2014年1月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

天孫降臨の意味するもの
天之御中主神なる幽之幽の神から、天照大御神なる“幽の神”が顕現し、その天照大御神kら“顕之神”なる天皇の降誕となるのである。それで天皇のことをスメラミコトと申し上げるのであります。

スメラミコトとは、統(す)べる御言です。一切のものはコトバから出来ています。その一切のものを統べるミコトとは一体何であるかというと、天照大御神の天孫降臨の御神勅『豊葦原の千五百秋(ちいぼあき)の瑞穂の国は、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆき)て治(し)らせ。さきくませ。寶ひつぎ(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、天壌(てんじょう)と窮(きわま)りなけむ』であります。

これが中心に『ス』を備えて一切のものがその『ス』に帰一している蓮華蔵世界の根本原理であり、この理念が天下って、現実の日本国が顕現しているのであります。天照大御神は宇宙を照らし給う。“天”は天球(地球に対する天球であって)つまり宇宙であります。

宇宙全体を照らし給う所の大神が天照大御神であって、その大神の御心に描かれた日本…国の理念を天降し給うて、それが具体化したのが日本国であります。天孫というのは決して子の次の三代目になる孫という意味ではなく『真の心』マコトノココロを降し給うたことである。

言い換えると、天照大御神の世界創造のマコトの理念を天降し給うたことであります。天照大御神の直系の御命(みいのち)を継承された天皇が中心となって統一されているところの『蓮華蔵世界』の理念が天降って、瑞穂の国即ち日本国家が造られたのであって、理念が先行して、その理念の形に、国土・国民の如き構成部分が集まって、茲(ここ)に現実の日本国家が出来たのであります。

現実の日本国は、日本国家の本体たる理念というものが天照大御神の御心の中に描かれて、その理念そのものが、天降って形となって現れたのである。

これがこの蓮華のような中心帰一の形であります。天の八方、地の八方、合計十六方向に中心から展開している。一切のものは中心から生まれたものであることが、蓮の形に象徴されているのです。花びらという部分品が相談して出来たのではなくて、中心荒花びらが展開したのである。部分である花びらが中心に寄り集まったのではなく、中心から花びらが延び開いてきているのです。この中心帰一の世界が、神様のお造りになった神の構図の世界であります。

釈迦尊の時代には、金波羅華(こんぱらげ)の実相世界を悟った弟子は迦葉尊者(かしょうそんじゃ)ひとりでありました。しかし古代の日本民族は直観的にこの神の造り給うた実相世界に直入したのであります。
この実相世界を悟った日本民族のDNAは世界に稀に見る優れた民族であるといえるのです。

真善美・無相にして無限相・陰陽の秩序・中心帰一・神我一体自他一体….これが蓮華蔵世界(実相世界・極楽浄土)であります。

Facebook友の、山田 洋征さんからシェアしました。

田母神 俊雄・論文を読んでみよう!

投稿日: 2014年1月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

田母神 俊雄・論文

『真の近代史観』論文顕彰制度『最優秀 藤誠志賞』

        日本は侵略国家だったのか?

  前・防衛省航空幕僚長 田母神 俊雄

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。

我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は十九世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第二次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(乱暴で道理がない)を膚懲(こらしめる)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

1928年の張作霧列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。
「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の盧溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「盧溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩問書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年一月には3000万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5000万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。
朝鮮半島も日本統治下の35年間で1300万人の人口が2500万人と約二倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降九つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は六番目、台北帝国大学は七番目に造られた。
その後八番目が1931年の大阪帝国大学、九番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校二十六期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約一千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。

もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の二十九期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で十歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は壁学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると、日本の満州や挑戦や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。
イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与ることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことでる。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本が入種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアリカから一笑に付されたのである。

現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む十一力国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「盧溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)。また一1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華二十一箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華二十一箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石倒民党との問でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の盧溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「盧溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し300万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていたヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成十八年五月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は
一回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。

そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980.年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には300人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー二の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。

当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。
さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二、第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家聞の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし入類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。
現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係も北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。

竹島も韓国の実効支配が続いている。東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。
自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントローから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつなっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。
日本国民は二十年前と今とではどちらが心安らかに暮しているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。

私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。

そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人とし
て我が国の歴史について誇りを持たなければならない。入は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の]途を辿るのみである。

*2008年(平成20年)11月11日(火)・産経新聞

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