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若い人の論文【大東亜戦争は自衛戦争であり、人種戦争でもあった】

投稿日: 2019年10月8日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

【大東亜戦争は自衛戦争であり、人種戦争でもあった】
水田安美

「戦争をした日本は悪い国である」と習った日のことを今でもはっきりと覚えている。ゆとり教育と自虐史観教育が一番蔓延していた世代として育った私は、祖母から教わった戦時中の話と学校で習う先の大戦の授業が噛み合わず非常に苦しい思いをした。私は当時、類まれなる高齢出産で一人娘として産まれた。その為、祖父母は戦争の中を命懸けで生き抜いた人であった。特に祖母とは一緒に住んでいたこともあり、毎日正座をして戦争の話を聞いた。私もいつか、この素晴らしい日本の国の為に貢献できる人間になると幼き頃から胸に抱いていたのである。それを、学校の先生や友人はおかしいと笑うばかりであった。どちらが真実なのか、探究心から本格的に中学2年生から歴史の勉強を始め、今年で7年目になる。この戦後70周年という節目の年に「日本は素晴らしい国であり、日本そのものが世界遺産に匹敵する」とジュネーブ国連でスピーチできたことは20歳を迎える私の一つの集大成でもあった。だが、同年代の友人は大半が「戦争をした日本は悪い国であり、反省し続けていかなければならない」と言っている。それを少しでも転換する契機になればと改めて『大東亜戦争』の真意に迫りたい。

アメリカでは、若者の先の大戦に対する世論が変わってきている。興味深いアンケートを見つけた。今年2015年7月18日~20日アメリカ人1000人を対象に面接調査を行い、「日本への2回の原爆投下は、正しい決定だったか否か」を問うアンケート調査が行われた。そこで、驚くべき結果が出たのである。それは、18歳~29歳の回答者の45%が「原爆投下の決定は間違いだった」と回答したことである。正しい決定だったと答えたのは31%であり、間違いだったと回答した者のほうが上回る結果となった。間違いだったという回答は年々増える傾向にあり、先の大戦に対するアメリカの若者の認識が変わってきている大きな証拠となっている。では、日本の若者はどうであるか。

日本の若者は、現在連日ニュースでも報道されているが、反日キャンペーンを繰り広げている。日本に生まれたことを誇りに思う若者は、メディアにも表にもなかなか出てこられずネットで密かに活動するか、活動しても世間一般には伝わっていない状況だ。これは、メディアの偏向報道の話にも繋がってくるが、今回はなぜそうした「日本嫌い」な若者が増えているのか核心に迫る。

なぜ、日本のことが嫌いな若者が増えているのか。それは『大東亜戦争』に対する考え方が非常に自虐的なものであるからだ。「先の大戦は侵略戦争であった」と、学校や親に、更にマスメディアに教えられて育つのである。次々と今の中国や韓国などを侵略し植民地にし、何十万人も残虐な殺し方をし、女性を強制連行して性奴隷にし、更に勢力拡大を図る為、真珠湾に突然攻撃をしかけたなどということが実際に教育現場で教えられているのだ。それを習った子供たちは日本のことを「最悪な国」だと思わざるを得ない。自分の国も自分自身も嫌いになるのも頷ける。だが、それらの歴史観はまったくの虚偽である。「果たして大東亜戦争は侵略戦争であったのか」その問いは調べれば調べるほど侵略戦争ではなかったことが明らかである。日本は、「自衛戦争と人種戦争」をした誇り高き国である。自衛戦争と人種戦争でもあったという真実を述べる。まずは、日米双方の指揮者の言葉と、日米開戦の頃を振り返り、人種差別が世界に蔓延していたこと、自衛のためにやむを得ず開戦したことを述べる。

「日本が戦争に飛び込んでいったのは、おもに自衛(security=安全保障)の必要にかられてのことだったのです」この言葉は誰の言葉であるか。それは他でもない、日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦った、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の言葉である。マッカーサーは日米戦争終結から6年後の1951年5月3日、アメリカ上院の委員会で、かつての日本の戦争についてこう証言したのだ。そして、日本軍を率いた東条英機はどのように述べているか。東条英機は東京裁判に備えて多くのメモを残した。彼が裁判のために準備した想定問答集のなかから自衛戦争か否かに触れられている言葉を抜粋する。『日清・日露戦争から満州・支那事変そして太平洋戦争まで、日本は常に自衛の名を借りているのは、常套手段ではないのか』という質問に対し東条英機の答えは、『断じて違う。外圧によって防衛の必要上起こった結果である。日本が自衛に名を借りるのは常套手段と決め付けるのは、世界の指導者が東亜の実情を知らぬために誤った見方をしているか、東亜の民族国家に同情がない偏見である。東亜は過去数世紀にわたってロシアを含む欧米列強の侵略と、今世紀になってソ連の東亜赤化戦略にあい、日本は日本自体と東亜の民族国家全体のため、それら侵略に対して防衛する必要があった。そのために自衛措置を頻発させたのである。よってきたる原因は外部の圧迫にあり、自ら求めたものではない。』と書かれている。この東条英機のメモが、これから述べる開戦までの歩みのすべてであり、結論である。では、日米開戦当時の日本はいかなる状況であったのか。

日米開戦の頃を述べる前に開戦に至った背景を述べる。背景として、その頃世界中に「白人優位主義」と「有色人種差別」が蔓延していた。当時のアメリカはメディア総動員で、テレビや新聞などで連日排日キャンペーンを貼り、日本人を人間ではなく猿扱いし、日本への不信感と敵対心を燃やしていた。その理由は2つ考えられる。まず1つは、当時アメリカは鉄道ブームであり、安い賃金で働く移民が溢れていた。そのなかにはヨーロッパ諸国から何千万人もの迫害を受けていた人たちもいれば、アメリカンドリームを夢見て移民してきた日本人も数多くいた。日本人は時間も守り、勤勉に働くため、「日本人の方がいい」と優先的に仕事をもらえた。だが、それに貧しい白人たちは黙ってはいなかった。その白人たちはマスコミに訴えたのだ。日本人を叩くことで喜んで新聞を数多く買ってくれる為、それはエスカレートする一方で、そこから日系人排斥運動に繋がっていった。もう1つは、日露戦争に、日本が勝利したことである。当時、「有色人種は劣等人種」とされており、反対にロシアは「最強」とされていた。高橋是清がユダヤ人の財閥の人との交渉に成功し、東郷平八郎などの作戦が見事に的中し、日本がロシアに完璧に勝利してしまったのだ。その頃から元々あった差別感情に日本人を恐れ、警戒する感情も加わり『黄禍論』という「黄色人種警戒論」が広まった。ドイツの地理学者、F・リヒトホーフェンはアジア民族の移住と労働力の脅威にふれ、『黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろう』と指摘したことが事の発端である。その頃からアメリカは対日戦に備え、日本と戦うときどうするかという戦争計画『オレンジ計画』を立て続けることになる。そして、1906年にサンフランシスコ大地震が起きたときも日本人学童は極めて少ない人数であったのに、「場所がない」という理由で日本人学童隔離が行われ、またカルフォルニア州で『排日土地法』が発令され、市民権を持たない日本人移民の土地所有が禁止され、さらにアメリカ市民権を持った日本人の子供名義での土地所有等も禁止された。極めつけは、1922年、アメリカの連邦最高裁が「日本人には帰化権はない」と判決し、アメリカ市民として暮らしている日本人の帰化権が剥奪されたのだ。そして、1924年には日本人移民を全面的に禁止する「絶対的排日移民法」が連邦法として制定される。これは、アメリカは国家として日本人を排斥したことになる。

アメリカが国家として日本人を排斥したことは、日米開戦の流れへと繋がっていく。1937年、非常に長引いたと言われた『支那事件』が始まる。そこでアメリカは日本が支那大陸で権益を拡大することに反対し、南京から逃げ、重慶に立てこもる蒋介石を仏印経由で援助。そして、1939年には、『日米通商航海条約』の破棄を日本に通告、日米間の貿易が完全に止まったのである。当時の日本は多くの戦略物資をアメリカの輸入に依存していた為、大変な痛手となった。そして、日本はアメリカの牽制のため『日独伊三国同盟』を締結するも、アメリカは更に経済封鎖を強める。そして、米英中蘭の四カ国による、対日経済封鎖(ABCD包囲網)が形成されていったのだ。日本はそれでも支援ルートを確保し続け、南部仏印進駐をすることとなる。これに対しアメリカはとんでもない強行に出る。それは、在米日本資産を凍結し、石油の対日輸出の全面廃止に踏み切ったのだ。また、オランダも、インドネシアの石油を日本に輸出することを停止し、石油がなければ産業も軍隊も動かなくなる為、日本存続の危機に直面したのである。これにより日本は完全に窮地に陥った。日本は、このアメリカによる『対日石油輸出全面禁止』を受けて、対米開戦へ向かう方針が書かれた『帝国策遂行要領』を決定する。だが交渉は進まず、最後にアメリカから手交された「ハル・ノート」は、日本の自衛の観点にとってとうてい受け入れがたい、衝撃的なものであった。よって、これを最終通牒と解釈し、日本の首脳部は、やむを得ず対米開戦を決意することになったのである。

ここで、当時小学生だった上智大学名誉教授渡部昇一氏の生の声を紹介したい。『だから、石油の輸入を止められたと聞いたときは、小学五年生ながら、いったい日本はどうなるのだろうと、目の前が暗くなるような気がしました。石油がなければ二十世紀の国家は存続できないということは、われわれ少国民にいたるまで、日本人なら誰もがわかっていましたから。そうした状況のなかで、十二月八日の朝七時、「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」-という有名な臨時ニュースが入りました。「ついに戦争か!」と思うまもなく、真珠湾攻撃に成功したという記事が出たものだから、本当に晴れやかな気持ちになりました。それは少年だった私だけの個人的な感想ではありません。戦後は日米開戦を知って「困ったことになった」と知識人の多くが嘆いたということにされていますが、開戦当時の新聞を見れば、「これで長年のモヤモヤした気分が晴れた」という識者のコメントが紙面を埋め尽くしています。占領軍の顔色をうかがってか、戦後はみんな当時の正直な気持ちを言わなくなっただけのことです。私は、日本はやむを得ず立ち上がったのだと、子供心にも思っていました。(中略)欧米列強の「東亜侵略百年」を覆す戦いだということは、当時は子供まで知っていたし、そういう覚悟でいたのです。出征した兵士も、そのつもりで行ったはずです。」当時の日本人の心が分かりやすく述べられている。このような高貴な気持ちで開戦のなかを生きたのだ。

最後に、人種戦争でもあったことをどうしても述べたい。日本人の人種種差別撤廃への情熱は、大東亜戦争の頃に突如現れたものではない。それは、明治維新の頃からあったものである。坂本龍馬はじめ、明治維新で活躍した志士達は当時、インドネシアが300年オランダ領であったことやインドも150年イギリスの植民地であったことも情報を掴んでいた。特に、ペリー来航の1853年の頃は1840年にアヘン戦争があった頃である。アヘン戦争では、中国に対してイギリスが人間だと思っていないやり方で攻撃をしていた。中国のお茶は非常に高いお金で売れたため、お茶で儲けた貯まった銀貨でアヘンを買い、中国人をアヘン中毒にしたことも、もちろん当時明治維新の志士達が多くいた九州、長崎や鹿児島などにその話は皆入ってきていたのだ。幕末の頃の日本の指導者達、特に吉田松陰は、その頃からアジア・アフリカから欧米を追い払うことを明確に考えていた。

長州藩のリーダーでもあった吉田松陰は、アメリカ渡航失敗後に書いた『幽囚録』で、日本を含むアジアやアフリカが欧米露の侵略を受けていることに触れ、軍備を増強し、朝鮮半島や満州、台湾、フィリピンなどを勢力圏に収めるべきだと主張している。更に久坂玄瑞への手紙では、インドまで押さえる計画に言及しているのだ。吉田松陰は、「このままでは防げない」と、全国各地をまわり「どこが危ないか、どこを守ればよいか」を許可なしではあったが、見て回っていた。その目的は他でもない、『欧米による白人優位主義の植民地支配を打ち払う』ことであったのだ。これは、吉田松陰だけではなく、薩摩藩主の島津斉彬や、幕末の儒学者、横井小楠も唱えていたことである。当時、ヨーロッパが日本に打ち込んでくる下関事件も勃発したが、伊藤博文や井上馨がイギリスに留学し国力の差というものを知っていたため、一度開国して、武器や軍事力などで吸収できるものは一刻も早く吸収し、そこから攘夷するということで、製鉄能力も佐賀藩をはじめ群を抜いて優秀であったが、それをはじめ必死に「悪の勢力から日本を守らないといけない」と日本は戦っていたのである。

そうした明治維新から受け継がれた『白人に左右されない』世界を広げるため、日本人は世界で一番はじめに立ち上がったのである。それは第一次大戦後、1919年のパリ講和会議で国際連盟規約を話し合う委員会で、日本は規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という表現を盛り込むように提案したのだ。これは、国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した初の快挙であった。賛成はフランス、イタリア、中華民国など代表11人と多数であったが、アメリカのウィルソン大統領が「全会一致ではないため、提案は不成立である」と宣言し、提案を取り下げたのであるが、このように、日本は人種差別撤廃の為に長年尽力してきたことが分かる。

大東亜戦争の目的は、自衛戦争の面もあるが、『欧米植民地からアジア各国を解放』する、人種戦争の面もあった。たしかに、アメリカとの戦闘には負けたが、日本は『植民地支配からの解放』という戦争目的においては勝利したのだ。下記に大東亜宣言を記し、大東亜戦争でアジア・アフリカ諸国はどうなったか述べ、この論文を終える。

『欧米列強の植民地支配から、アジア各国を解放する』この戦争目的に勝利したと述べた。1941年12月、開戦直後の閣議で、日本はこの戦争の名を『大東亜戦争』とすることに決めた。その理由は、「東亜新秩序の建設を目的」としたからだ。その新秩序の中身は、下記の大戦中の1943年11月に出された『大東亜宣言』に盛り込まれている。

前文~そこで私達東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、その自存自衛を全うするために、次の綱領に基づいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与する事を宣言します

1、東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、同義に基づく共存共栄の秩序を建設する

2、東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立する

3、東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高め合う

4、東亜諸国は、互いに緊密に連携する事で、それぞれの国家の経済の発展を遂げると共に、東亜諸国の繁栄を推進する

5、東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献する

この宣言は、日本軍が米英軍を駆逐して独立したフィリピンやビルマなどの首相が、東京で一堂に会した史上初のアジア・サミット『大東亜会議』で採択された。宣言は、米英による、「飽くなき侵略と搾取」が大戦の原因だと指摘し、人種差別の撤廃など5原則を掲げ、この大東亜戦争の目的は『欧米による植民地支配からのアジア各国の解放』にあることを明確にうたったのである。

そして大東亜戦争の後、世界は一変したのだ。戦前、独立国は世界に50カ国程度だったが、1960年前後には100カ国を越え、現在は約190カ国になった。多くが戦後、欧米植民地の「束縛からの解放」されたアジア・アフリカである。大東亜戦争が終わったあとも、現地に残り、現地の人に武器の使い方を教え共に戦った日本軍が数多くいた。それができたのは、この植民地解放の志があったからだ。そして、アジアの独立に感化されたネルソン・マンデラをはじめとしたアフリカ諸国も独立への動きへと変わっていった。

このように、人種差別撤廃のために立ち上がった誇り高き大東亜戦争でもあったのである。決して、侵略したいと外国に戦いを挑んだ「侵略戦争」ではなく、石油が完全に輸入されることが無くなり、やむを得ず開戦に至った「自衛戦争」であり、更にアジア諸国の植民地解放のために戦った「人種戦争」でもあったのだ。このことを、未だ知らない多くの日本の若者たちに伝えていきたい。この、『大東亜戦争は自衛戦争であり、人種戦争でもある』ということが日本の常識に転換される日が来ることを心より願い、論文を終える。

【そこまで言って委員会】 安倍首相「橋下市長の国政進出ありえる」「戦争法案なら私も反対する」

投稿日: 2015年9月7日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

【そこまで言って委員会】
安倍首相「橋下市長の国政進出ありえる」「戦争法案なら私も反対する」

安倍晋三首相が6日放送の読売テレビの番組「そこまで言って委員会」で語った主な内容は次の通り。番組は首相が4日に大阪を訪問した際に収録された。

--国会開会中だが、(大阪での出演は)まずくはないか

首相「国民にしっかりと説明せよと言われていますので、首相の役目として、こういう番組を通じて、国民のみなさまに、わかりやすく説明をしたいと思います」

--安全保障関連法案の話をする。反対意見では今回の法案ができると、世界中で戦闘行為が実際にできそうなイメージを持っている人が多いが、そんなことは一行も書いていない。なぜここまで誤解が広がっていると思うか

首相「私たちの説明の仕方にも問題が(あると)、反省をして、こういう機会を通じて、まさに国民の命を守るために必要なんだということを理解をしていただきたいなと思う」

--自ら模型で説明をして、少しずつわかってもらっているという実感はあるか

首相「そのまま説明をするより、たとえ話で説明した方がいいですが、たとえ話と実際の法案を中身は、もちろん違う。なんでこんなたとえ話なんかするんだという批判もあるが、しかし、たとえ話をすると、それでわかりやすくなった、よくわかったという方もおられるのも事実」

--安保法案が話題になるほど、支持率が下がるという現実があったが

首相「安全保障にかかわる政策を進める場合は、どの内閣も支持率は落ちる。例えば、安保条約を改定した岸(信介)内閣は、それと引き換えに退陣しているし、宮沢(喜一)首相の時のPKO(国連平和維持活動協力)法もそうですから。それは、もう覚悟の上ではありますけど」

--それは、安保法案が成立したら退陣するという意味ではないか

首相「まったく考えていない」

--かなりつっこんだ質問ある。覚悟は

首相「この番組に出る以上(笑)」

--15の質問。安保法案は戦争法案ではないといえるか

首相「もちろんイエス。戦争法案であれば、私も反対してます。多くの国々が支持してますから、戦争法案ではないことは明らか」

--70年談話はあれでよかったか

首相「私はよかったと思ってます。多くの方々に納得していただけるものを出そうと考えて作成した」

--本当は「侵略」と(いう言葉は談話に)入れたくはなかったのでは

首相「あの、よく読んで頂ければと思います」

--中国の抗日戦争勝利70年式典に行きたかったか

首相「和解の要素が入っていなければ、行けませんということを、先方には伝えていたが、これは、日本だけでなく、アメリカや多くの国々はそう考えていたんだろうと思います」

--事前に行くかもしれないという話が出回ったこともあった。そんな話はあったのか

首相「式典自体が、和解の要素がしっかり入っていて、反日的なものでなければ、それはわれわれも考えました」

--ふたを開けてみると、かなり反日的な軍事パレードだったが

首相「抗日戦勝利、反ファシズムの式典でしたから、名前からして、そういうイメージを世界に発信するものであると」

--韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領ともっと仲良くしたいか

首相「みなさんが思うより、私は、親しいんだと思いますけどね。大統領に就任される前に、何度も、面識あった、食事をしたこともあった。当然隣国ですから仲良くしたいと思います」

--日本には偏向しているメディアがあると思うか

首相「この番組に出ている、コメンテーターのような方が出れるような番組が、増えればいいんではないかという人もいますね」

--週刊誌の吐血報道は誤りか

首相「「ごほん」(手で口を覆って咳き込み、その手を見せるしぐさをする)

--ここでギャグ入れられても

首相「高杉晋作じゃありませんから」

-妻(昭恵夫人)は(ミュージシャンのの)布袋寅泰の大ファンか

首相「こんな質問するのか、という質問ですね。イエスですね」

--五輪エンブレム問題の佐野研二郎氏は残念か

首相「結果が、ああいう結果になったのは残念ですけどね。みんなで祝福する。ざこばさんも祝福するオリンピックにしたいと思いますね」

--2020年の東京五輪まで首相を続けたいか

首相「まずは、来るべき総裁選挙に勝つことですから。それで(総裁任期は)3年ですから」

--原発は、将来的にはゼロにしたいか

首相「:安全が第一。しかし、このままでは電気料金が上がっていきますから、その中で、厳しい基準に適格だと判断されたものについては、動かしていきたい。ただ、比率はできる限り下げていきたい」

--日露首脳会談は年内に実現したいか

首相「適切なかたちで、適切な時期に実現したいと」

--実現したいというところはイエスか

首相「イエス」

--年内には(実現したいということか)

首相「それは、双方の状況もありますし、国際情勢もありますし」

--中国バブル崩壊に危機を感じるか

首相「何とかコントロールできるんだろうと思いますね。G20に麻生(太郎財務相)さんが出席をしますから、せっかくのG20ですから、中国経済について、率直に議論したらいいんだろうと思います」

--何とかコントロールできるのか

首相「今まで、そういう議論をしたこと、G20でありませんから」

--首相が何とかコントロールできると発言した

首相「経済部の長谷川(幸洋)さんどう思いますか」

長谷川氏「私は実は…」

--長谷川さんの意見は後にすることにして。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉が妥結しても日本は損をしないか

首相「損をするならば、TPPに参加しませんから、損する妥結はしない。これははっきりしている」

--アベノミクスは成功しているか

首相「成功しつつある。しつつ」

--2017(平成29)年の消費増税、8%から10%(への再増税)は見直さないか

首相「これは、イエス。リーマンショックのようなものがない限りは」

--新聞によっては朝、見るのがイヤだという新聞はあるか

首相「一応全部見ます。長谷川さんの会社の新聞もね」

--「けっ」という感じか

首相「驚くことがあります」

--何に最近驚いたか

首相「最近でいうと驚いたのは、自衛隊は核弾道を輸送という1面記事が出た。びっくりした。あり得ない」

--中谷元・防衛相が、かなりあいまいな答弁したからでは

首相「あいまいではなくて、純粋に法理的にはどうかということ。これは、例えば、他の周辺事態(安全)確保法だって、他の法律だって、そんなことは禁止されてませんから。それは、そうだと聞かれたら、そうだと答えるんですが。

ですけど、アメリカが日本に核弾道を運んでくれということは、120%、ケビン・メアさん、ないですよね? もちろん、こちらの能力もない。机上の空論なんです。机上の空論に、こちらも机上の空論で答えざるをえない。それを、まるでやるかのごとくというのは、びっくりする」

--なぜ吐血報道が出たのか

首相「風邪をひいていたのは事実。それは、最近の話。吐血報道が出たときは、本当に元気でしたし、今でももちろん元気なんですが。今の時代、高杉晋作みたいに吐血って。もう、その後ゴルフとかしてますから」

--日米韓の首脳会談で、安倍首相が韓国語で話かけていたことがあった

首相「同時通訳だったから、イヤホンを入れてたんで、聞こえにくかったのか、私の発音が、あれだったのか」

--人から見えていないところで、朴大統領もニコニコしているというのは本当か

首相「基本的には、いろんな場面で、お目にかかるが、大変雰囲気は温かい雰囲気ですよ」

--日中韓の首脳会談が行われる見通しと報道されたのは

首相「すでに、日中韓の外相会合は行っている。その上で、首脳会談を行おうということについては、ある程度すり合わせはできている。今、明確になったということですね」

--会談では何を話すのか

首相「話すことはたくさんありますね」

--竹島を返せとかは言えないだろう

首相「もちろん、隣国ですから。対立する問題はありますけど。対立問題があるからといって、会わないというのは、間違い。話すべきことは、経済、人的交流、外交、国際政治、国際的な課題はたくさんある」

--裏交渉は、日韓でも相当やっているのでは

首相「いろいろ、努力はね」

--中韓両国だけでは決められるはずはない。水面下で『中国に行ったらこんな話はするが』という話はしているか

首相「そういうことについて、なかなか、ここでいきなり私がそうですよというわけにはいけませんけども」

--70年談話について。全文の最終的な文言はいつ確定したか

首相「21世紀構想懇談会で提言書をまとめていただいて、これをベースとして、ただちに作成作業に入って、相当推敲(すいこう)に時間がかかったが、8月に入る前に、かなり骨格は出来上がっていた」

--作成は自身でか

首相「これは、もちろんいろんな方たちとともに、それぞれ知恵を絞りながら、作成した」

--朝日新聞は批判していた。記事は読んだか

首相「こう書くしかないんだろうなと」

--15日の朝日の社説はこんな談話ならいらなかったって書いてあった。

首相「主語がないとおっしゃっても、閣議決定してるんですから。安倍内閣として閣議決定しているんですから、安倍内閣として出した文章なんですよ。ですから、まさに、(談話の主語は)基本的にわれわれ内閣であることは間違いないこと」

--ホワイトハウスの発表はすごくよかったと。談話は高く評価された

首相「インドネシア、フィリピン、あるいはベトナムから評価されている」

--結果的に内閣支持率が回復傾向になったことについては

首相「正直言ってほっとした。いわゆる談話によって支持率が上がるとはないと思っていた。村山談話においては、相当激しい議論があったのは事実。そうすると、なかなか終止符を打てない。私と言うよりも、内閣全体として、国民を全体を見ながら、だいたいの方々がだいたい、こういうところだろうと納得できるものにしたいという、談話にした。21世紀懇談会においても、日本の歴史だけをみていたんでは、見方としては誤りであって、世界がどういう世界だったか。100年前どうだったか。特定の時点だけをみても、わからない。歴史はつながっているから。どこで日本が敗戦に至る道を歩んでしまったのか、アジアの人々に、多大の苦痛を与える結果になってしまったのか。村山談話は、国策を誤ったという抽象的な言い方しかしていない。抽象的な言い方であっては、教訓にはならない。私たちはどこで、道を誤ったのか、何を学んでいるんだと、しっかりと書くべきではないか、そうしないと未来につながらない」

--80年談話は必要か

首相「私たちとしては、歴史的に終止符を打つものにしたいという気持ちで談話を書いたが、それは、10年後のみなさんが…」

--10年後も首相をやっているかも

首相「ありえないですけども、その時の国民のみなさんが、決めることだろうと思います」

--消費税を10%に引き上げるのか。5%から8%にあげるのは、大変だった

首相「消費税をあげることが目的でない。社会保障制度を次の世代に引き渡していくために、財政の健全化をはかっていく、国の信任を確保する、国民を豊かにしていくことですから、逆行するようであれば、当然止めるのは当たり前なんだろうと、前回もそういう判断をした」

--憲法改正は悲願か

首相「イエス」

--来年は衆参ダブル選挙の可能性はあるか

首相「解散は全く考えていない」

--衆院解散を全く考えてないというのは、(首相は)嘘ついてもいい(といわれている)

首相「全く考えていない」

--橋下徹大阪市長は近い将来、国政進出すると思うか

首相「可能性はあるんじゃないでしょうかね」

--大阪に来て、今晩(番組が収録された4日夜)に会うのではないかという噂がある

首相「東京に戻りますから、このあと」

--今回の総裁選で、石破茂地方創生大臣には出てほしかったか

首相「まだ、8日告示ですから、まだ、何も」

--小泉進次郎議員には将来、首相になってほしいか

首相「イエスですね。そういう資質はあると思います」

--民主党の辻元清美議員はイライラの総合商社だと思うか

首相「これは、ノーですね。非常に有意義な議論を…」

--苦手なのか

首相「どなたも、てごわいなと思っています」

--日本は、もっともっと女性を活用すべきだと思うか

首相「イエス。女性の意見が入った方が、いい結論を出せるんじゃないかと。安倍家においてもそうですけども」

--公明党とはこれからも仲良くやっていきたい。

首相「イエスですね」

--(読売テレビ番組の)「そこまで言って委員会」は、東京でも放送するべきだと思うか

首相「関西でなければみれないというのはブランドなんですかね。東京でもみてみたいという人は多いですよ」

--関東地方で放送されていない番組に出ても大して(影響はない)と、ちょっと思わないか

首相「私の地元は山口県ですから、影響力は大きい」

--拉致問題は自分の政権で解決したいか

首相「イエス。大変難しいですけど、何とか解決したいと思っています」

--英語には自信があるか

首相「ノー。ノーの発音でわかったかもしれませんが」

--米議会での演説、米国民の琴線に触れた

首相「:ありがとうございます」

--日本は、アメリカのポチではないと思うか

首相「イエス」

--米軍普天間飛行場の移設先は、辺野古以外にないか

首相「工事を1カ月間中断しながら、(沖縄県との)交渉を誠実しているが、危険な状況にある普天間を固定化してはならないということ。それと、普天間に移設するというのは、そのまま機能を全部持っていくのではない。意外と知られていない。普天間飛行場は3つの大きな機能がある。オスプレイ、緊急時の飛行機の受け入れ、空中給油。空中給油は全部山口県の岩国に移っている。緊急時の飛行機の受け入れ、これは、本土でいけた。残っているのはオスプレイだけ。普天間では、各戸に対する防音の設備をしなければならない。対象は約1万軒。それが辺野古に移ればゼロになる。民家から遠く離れている。そういう意味においては、面積も3分の1になる。負担の減少は間違いない。ただ残念ながら、まだ了解を得るということには、なっていないので、われわれも誠実によく説明していきたい」

--自分はお国のために死ねると思うか

首相「こういうことを、簡単に口にすると、果たして本当かと。でも、われわれは政治家になった以上、とにかく国のために自分の人生をささげるという気持ちで仕事をしている」

--やっぱりこの番組(の質問)はきついか

首相「きつい質問ありましたね」

--辻元議員に関する質問で、さきほどの答えは嫌みではないか

首相「まだ、国会中ですから」

--「あほなこと聞きやがって、このカス」と思うことはあるか

首相「ないです。こういう見方があるんだと」

--つぶやきの声が大きくて、ヤジだといわれていることについて

首相「反省してます。(口元を示しながら)ここの言葉が、思わず言葉に(笑)」

【拉致問題】

--拉致問題は(北朝鮮が再調査を約束してから)1年がたっても進展していないことについて

首相「基本形は、北朝鮮側に、この問題を解決しなければ、北朝鮮の未来を描くことができないと思わせることが大切ですから。制裁をかけつつ、圧力をかけるけども、話し合いをしなければ、解決をしませんから。今は進んではいないが、話し合いの糸口はつかんでおり、これを離すべきではないと思っているので、誠実な対応をこれからも強く求めていきたい」

--飯島(勲・内閣官房参与)さんがモンゴルを訪問し、誰かと会ったかとか聞こえてきているが

首相「今の段階では、はっきりとした動きはありませんが、何とか安倍政権の間に完全解決したい」

--沖縄県の翁長雄志知事が普天間移設に反対の立場だ。政府は前に進める覚悟はあるか

首相「今、工事は中断しているが、今の普天間飛行場の危機を除去するための移転先は、辺野古以外は残念ながら、ないというのがわれわれの結論だ。しかし、その上で、沖縄の工事を中断している期間を利用して、お互いに冷静に議論をしたいなと思っている。同時に米軍基地の関係については、嘉手納以南の例えば、西普天間住宅地は返還されましたから、大きな返還は行われている。そういうことも含めて十分な説明が足りないかなと。そういう思いもある」

--中国は繰り返し沖縄を“取り返す”といっている。機関誌で。そういうことを正直に沖縄県民に言って、説得してはどうか

首相「民主党政権でも、最低でも県外と言って、選挙して、やっぱり辺野古しかないという結論になった。それで、鳩山(由紀夫元首相)さんも在沖米軍の存在、抑止力というのは大切なんだなと学んだとおっしゃった。本当はもっとはやく学んでいただきたかった。しかし、沖縄の基地負担が過重であるというのは事実であり、この現状を変えたいと思っている。ただ、普天間飛行場の移設をしなければいけない、その移設先については、辺野古しかないというのがわれわれの結論だ。沖縄の要望にどのようなかたちでこたえられるかということについても、考えなければいけない。しっかり説明をしていきたい」

--維新の党の(分裂の)動きは耳に入っていたのか

首相「そうではなかった。ただ、党内でずいぶん考え方が違うのかなと感じていた。平和安全法制に対しての考え方が違うなという感じはありました」

--安保法制の修正協議はまとまらないようすだ。維新には採決時に出席し、反対してほしいという気持ちではないか

首相「今、まさに議論中ですから。修正も含めて、国会にまかせている」

--衆議院での採決のときのように、強行採決だと言って採決自体に望まないというのは、民主主義国家としてどうか

首相「もちろん、しっかりと議論するが、最後はどこかで多数決で決めていく。国民の公正な選挙によって選ばれた議員が、多数決で決めていかなければ、前に進めませんから。ですからどこかで、決めなければならない。その時に、賛否を明らかにすることということは国会議員の責任です」

--維新にはどんな態度をとってほしかったか

首相「維新は責任野党であるということを明確にしておられた。将来政権を担いうる政党として、国民にわかりやすく政治を行っていくと言っておられたんで、そういう役割を果していただきたいと思います」

--橋下市長も辻元氏も、高市早苗(総務相)さんも一応関西。関西人をどう思うか

首相「人によりますけどね。みなさん、個性が強い」

--マスコット「左翼(ひだり・つばさ)君」を知っているか

首相「あの翼君でしょ。(背中の)つばさのバランスがくずれていますね」(握手し、終了)

国連人権委で韓国に反撃

投稿日: 2015年8月22日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

国連人権委で韓国に反撃

  杉田水脈                                              山本優美子

  前衆議院議員           なでしこアクション代表

   写真をクリックしますと、各人のHPにハイパーリンクします。         

8月21日金曜夜10時、第66回のゲストは、杉田水脈・前衆議院議員となでしこアクション代表の山本優美子さんです。

国連女子差別撤廃委員会の第63回準備会合が7月27日からジュネーブで開かれ、杉田さん、山本さんは、「テキサス親父」ことトニー・マラーノさんらと現地に乗り込みました。
参加しているNGOは日本のみで、日弁連、日本女性差別撤廃条約NGOといった常連の団体だったという。そんな中、「慰安婦問題の真実」を発信するため、「慰安婦の強制連行はなかった」ということに的を絞ってフランス語でスピーチしたという杉田さん。

山本さんは、米国に加え、カナダやオーストラリアなどでも慰安婦像設置の動きがあることに懸念を示した上で、「慰安婦問題は女性の人権擁護という目的を逸し、外国での反日政治キャンペーンに利用されている」と指摘しました。

杉田さんと山本さんのスピーチはそれぞれ2分ずつで、他の各団体は5分から6分。事前に全部の団体を平等にしてほしいと主張したものの、なぜか認められなかったという。
委員からは、「日本の慰安婦問題については、強制連行され、性奴隷にされたということは知っているが、それは事実ではないという意見を初めて聞いた。本当なのか?」「あなた方は政府の意向を受けて来ているのか?」という質問や、「慰安婦問題に2つの見方があると初めて知った」などの感想があったと杉田さんは言います。
国連での活動を実際に行ってお二人が感じたこと、真実を発信するため、今後、日本がなすべきことについてお伺いします。

【ゲスト】杉田水脈(前衆議院議員)、山本優美子(なでしこアクション代表)
杉田水脈:1967年兵庫県生まれ。前衆議院議員。次世代の党所属。平成24年衆議院議員初当選。国会で「従軍慰安婦」捏造問題など数々のタブーに切り込み一躍注目を浴びる。
山本優美子:正しい歴史を次世代に繋ぐネットワーク「なでしこアクション」代表。2011年、慰安婦問題を私たちの世代で終わらせるために女性中心のネットワークを立ち上げる。

悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人

投稿日: 2015年4月8日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人

2015年4月8日 13:29

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(FBF神さまよりシェア)

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●悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人(動画)

https://www.youtube.com/watch?v=hFe2xkpupBo

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以下文字おこし

(大正十一年(一九二二)、釜山生まれ 平成二年一月逝去・六十八歳、

 昭和二十九年五月「日本文化研究所」を設立)

大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。下関の住吉神社に奉職。戦後韓国に帰国。

李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられる。

(日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」に引っ掛かり追放)

朝鮮動乱を経て、昭和29年5月に「日本文化研究所」を設立。

研究主題は
一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究

同じころの我が国が、敗戦により自国文化の否定、罵倒する言論がまかり通っていたのとは対照的です。

その後「日本と韓国」(韓国と日本ではない)という著書を南朝鮮で出版しましたが、

「反共法」に引っ掛かり、朴氏は裁判にかけられ、三年半の刑が言い渡されました。

著書は全て没収・焼却されました。

この著書は三分の二が日本への言及であり、日韓の恒久的安定が説かれていました。

出獄後KCIAからの査察を受け、何回か投獄の憂目を見ましたが、それでも初一念を曲げず「日本文化研究所」は名称を「韓日文化研究協会」と改め、細々と続けていました。資金なく、生活は文字通り赤貧洗うがごとき状態でした。

名越二荒之助氏が昭和四十二年に学生達と訪韓し「韓日文化研究協会」を尋ねた時に荒廃して目も当てられぬくらいの研究協会の建物を指さしながら「これで松下村塾なみになりました」とカラカラと笑いました。

名越二荒之助「朴鉄柱大人を偲ぶ」より

朴氏は吉田松蔭のような生き方をもって、日韓永遠の架け橋たらんとしていたのです。

私たちが来るというので、朴氏の弟子数人も集まっていました。

朴先生と弟子たちの目は爛々と輝き、底知れぬ迫力を感じました。

対座していると、反日砂漠の中でオアシスに出会ったような安らぎを覚えました。
朴会長は我々の訪問を待ちかねたように、語り始めました。

それは堰を切った急流のように溢れ出て、とどまることを知らず、三時間がアッという間に過ぎました。

「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。

北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。

日本はすばらしい。

万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。

日本固有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。

〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。

それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。

暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」

「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。

ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。

韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。


日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。

それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。


私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。

それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。

日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」

「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。

そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落していた。

お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではないか。

そのために日本は自信をとり戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい。」

「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。

平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。

それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。

最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。

〝事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし〟

というのが、 開戦時の心境であった。

それは日本の武士道の発露であった。

日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。

それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。

日露戦争と大東亜戦争-この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。

この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを始めとする植民地を持った欧米諸国であった。

彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。

戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決る、というのはクラウゼウィツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。

日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、〝聖なる戦争〟であった。

ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。

二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし 彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」

その後、朴氏は肺がんに犯された体に鞭打って、亡くなる一年前の平成元年一月に先帝陛下の御大喪の際に来日したそうで、朴氏から兄と慕われた中村武彦氏の文章より朴氏のお人柄を偲べます。

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<平成元年一月、先帝陛下の崩御の直後に重い足を引きずって彼は東京にやってきた。先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて、長い間頭を上げなかった。

御大喪の日には、雨の中を早朝から皇居前の堵列(とれつ)に加わり、お見送り申し上げた。名も無き一韓国人が、瀕死の身を以て氷雨に濡れながら、泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しい真心を、御神霊は必ずや御嘉納になったであろう。>

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この様な朝鮮人がいた事を決して忘れてはならないが、今の朝鮮は日本統治時代が良かったと言ったご老人が殴り殺され、その行為を賞賛する奴までいるような国となっています。

以上。

☆—— —— —— —— —— ——☆

【朴鉄柱氏の講演から】

 今いちいち申し上げる暇はありませんが、日本は善意はあっても悪意というものはなかったと云える。さっきも申しましたように日韓併合だって悪意じゃない。これも放っておけば、日清戦争でやっと独立権を回復してやったのに、又ロシアにやられてしまう、これじゃいつまで経ってもだめだ、それじゃ自分たちがやってやらなきゃだめだということなんで、私は善意に解釈すべきで、決して悪いことじゃないと思います。
 私一つだけ強調したいのは、昨今の教科書問題とかで日本の侵略だとか何かと言っていますが、これは欧米諸国のようなものではありません。欧米のアジア侵略こそは筆舌に尽し難いものがあったわけです。皆さんもよくご存知だからいちいち申しませんが、ジャワ、インド、ボルネオ、すべて席巻して独立国と云えるのはシャムと日本しかなかった。中国だってアヘン戦争でズタズタにやられている。事実はこういうことなんです。

ただ問題なのは今日の日本と韓国はどうしたらいいかということです。これは大変な問題です。
 先づ日本のことを申してすみませんが、日本は歴史教育が全く欠けております。なぜ歴史を教えないかというと、GHQの政策をそのまま受け継いでいるからです。これじゃいけない。教科書にその国の価値観持つのは当然です。するとね、韓国騒ぎ、中国騒ぎするから取りやめる、これじゃいつまで経っても本当の歴史は成り立たない。このことを皆様真剣に考えて頂きたい。
 と申しますのは、何度も申すようですが、日本は決して悪意でやって来たんじゃないということです。欧米の侵略戦争はもっとひどかった。それに比べれば何ということはありません。
 まあ、大東亜共栄圏ということばはあまり好きじゃなかったんですけれど、要は弱者を保護し解放するということが日本本来の思想だったんです。これは極めて正しいことです。そこが歴史をまともに教えないから、皆様がもう卑屈になったという経緯がないでもありません。ですから、そこの所を皆様方が若い人の教育に熱心に当って頂きたいということを願いする次第です。

 それから韓国も然りですが、教科書問題を始めいろんな問題で日本をたたくのは、これ援助してくれとか、お金をくれとか、借款くれとか、経済的魂胆が必ずあるわけですよ。だから、煩わしい、うるさいからやってしまえということではアジア問題、日韓問題はいつまで経っても同じなんです。そこの所をよく考えて、日本の政治家は勿論ですが、皆さんの周辺からも正しい歴史教育が出来るようにして頂きたいと思うんです。
 本当のアジア問題の解決には、自主性が第一。自主的な教育、自主的な憲法に基ずくことです。相手が聴かなければ説得すること、相手がすねていたら引張って来てでもやるという気概を持たないとダメだと思います。煩わしいから金やってしまえばそれまでだというんでは、いつまで経っても解決しないと思うんです。
 韓国でも中国でも過去の歴史にこだわって好きなこと云わせていたらキリがないですよ。よく南京事件のことを持ち出しますが、その前の済南事件などは日本の人がたくさんやられているんですから。
 私、大変僭越なことを申し上げましたが、これがこれからの日本の進み方の基本になると思います。これが出来ない限り、お金の援助をいくらやってもキリがないんです。

 戦前の日本の国家的行動を「侵略」の一語で片づけるような歴史観は、本当の事実を全く無視しています。
 中国革命の父孫文は当初滅清興漢をスローガンとして戦っており、玄洋社の頭山先生など日本の民間志士とのつながりが深かったんですね。偶々日露戦争が起きて日本海海戦で日本が大勝した時、孫文はロンドンに亡命していましてイギリスの高官と話をしたんですが、日英同盟のさ中というのにその某高官は、白人が有色人種に負けたのが悲しいというんです。というのは、イギリスとしてはロシアの南進政策を阻止する防波堤とするため日本と利害関係で結ばれていたに過ぎないのです。しかし最早日本の防波堤としての役は終ったということで、白人が負けたことが悲しいというんですね。
 そこで孫文は一念発起しまして日本と提携しなくちゃいけないというので帰国して来るんです。そして中東アジアの港々に船が泊まると、原地人達からあんたは日本人かと云われ、理由を聴くと有色人種が白人に勝ったのが嬉しいと云って喜んでいるんです。それで日本に来た時、大アジア主義という演税をしたんです。そしてこの時、満洲は日本に与えてもよいと云っているんですね。というのは満洲は清国を興した女真族の故郷であって、孫文としては清を中国本土から追い払って漢民族の国を建てようとしているわけですから、満洲を中国の一部とは考えておらず、寧ろ日本が投資してアジア防衛の根拠地にしてもらった方がよいと考えたわけです。
 だからこの方向に沿って日本の国家権力も動かされてきたわけで、日本は悪いことをしてないんですよ。少なくとも政府はどうあれ、在野勢力というのは本当にアジア諸民族の味方になって連携を保ってやって来ている。先程も云ったように黒龍会が東学党を支援したり、玄洋社が辛亥革命やフィリピン独立運動を支援したり……。
 そうしてみると、明治維新のパワーというのは、政権の座に就いた側になくて、在野の人達に大きな維新精神が受け継がれてアジア問題を常に真正面から捉えて来てたんですね。
 私も頭山先生に戦前一度だけお会いしましたが、君は金玉均タイプだと云われました。金玉均というのは、御存知だとおもいますが、福沢先生の門下でもありまして李氏朝鮮末期独立党を作って親日政府を構成し日本と協力して韓国を立ち直らせて東亜の安定を保ちたいと主張したんです。それを時の日本政府は相手にしなかったんですが、頭山先生らは支援し続けたわけです。これは非常に価値あることだと思います。こうした在野の努力を除いて近代日本の歴史
もあり得ないと思います。 だって当時日本政府の高官は鹿鳴館に象徴されるように欧米模倣になり切って何もなかった状態です。伊藤(博文)
さんなんかも、料亭に行くと、頭山さんが来てないか、と聴いて来ていない、というと入ったというんです。来てるというと逃げちゃうんですよ。それくらい時の首相も在野勢力を恐れていた。後の首相になった犬養さんなどもその頃は玄洋社の志士だったんです。
 今日でも皆さん達のような民間の人こそが真の日本の歴史に立って尽力して頂ければいつか必ずアジア諸国との深い理解と友好が成り立つんじゃないかと思います。

 政府に任せたらダメなんです。私のよく知っている立派な人でも政府と結託すると必ず悪く染まるんですよ。
 私自身も朴正熙の時代から共和党に来てくれと云われたことがあるんですが、私は日本文化のこと以外は政治も知らないし、但し「古事記」なら講義しましょうと云って断りました。それが却って向うの心証を害してしまいまして弾圧され
たんです。「日韓間題の将来」という本も書いたんですが、反共法に引っかかって刑務所に入ったんですよ。こういうよう政治家に任せると目先に追われてダメなんです。在野の方が結束して勉強し、修行教化していけばやがて実現しま
す。これが基本だと思います。
 但し日本はゆくゆくは憲法改正しなくてはいけませんね。私どもの情報では韓国政府もおいおいよくなりつつあるらしい。というのは韓国野党に私友人がいるんですが、結構立派な人がいますので、次期政権は野党に帰ってくると思うん
です。すると私も遅ればせながら命ある限り協力してやっていきたいと思います。
 今まではよくないことばかりでしたが、日韓の文化交流の根は非常に深いんですから、これを民間の力で充分掘り下げていく研究機関を作っていけば必ず道が開けると思います。

 私、冒頭にも申しましたように「私と日本」という本を書いておりまして、個人的内容かと思うかも知れませんが、これを書き通しておきたいと思うのは、韓国の若い人の将来のためなんです。私が先駆者とは申しませんが、少なからずそ
うした気概で書いていますから、日本文化の理解に一生捧げ尽くしたいということは誰か分かってくれるんじゃないかと思うんです。
 貴重な時間を私ごとき者のお話をお聴き頂き、有り難く存じました。今後とも御指導賜り相携えて仕事をしていきたいと思います。

以上です。

image朴鉄柱氏

ケントさんの記事をシェアしました。日本語と漢字を廃止した某国 わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない。

投稿日: 2015年3月27日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

【ケント・ギルバート】日本語と漢字を廃止した某国 わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない

2015年03月26日

    ★【ニッポンの新常識】日本語と漢字を廃止した某国 文献を読めないのは悲劇か喜劇か K・ギルバート氏
    2015.03.25
    20141016083744b92_20141119222904e2c
    私はブログとフェイスブックに載せる記事を、原則として日本語と英語の2カ国語で書いている。記事の題材や資料が英語の場合、先に英語で書いてから日本語に翻訳する。この場合はあまり苦労を感じない。
    しかし、参照する資料などが日本語だった場合、先に日本語で記事を書いてから英語に翻訳する場合が多い。このパターンは少々やっかいだ。
    日本語は漢字という1種類の表意文字と、ひらがなとカタカナという2種類の表音文字を組み合わせて表記できる。しかも、「助詞」をうまく使えば、日本語は文の中で語順を入れ替えることすら自由自在だ。
    他方、英語はアルファベットという26文字だけで全てを表現しなければならない。便利な「助詞」は存在せず、倒置法などは限られる。
    ちなみに、日本語の仮名は「五十音」と言われるが、「がざだば」行の濁音、「ぱ」行の半濁音、「ぁ」行と「っゃゅょゎ」という捨て仮名を入れると、ひらがなは76文字。カタカナは「ヴ」も使うから77文字ある。
    加えて、常用漢字は2136字/4388音訓もあり、同じ言葉でも、どの文字種を使うかで微妙に意味を変えられる。
    従って、日本語で文章を書くときの自由度の高さは、英語とは比較にならない。うまい皮肉を日本語で思い付いても、英語で表現しようとすると本当に大変なのだ。
    世界に誇るべき日本語の表現力だが、前回の連載で、君が代の変遷について書く際に、日本の初代文部大臣の森有礼(ありのり)について調べていたら、驚くべき事実を知ってしまった。
    yurei
    森は10代で英国に留学しており、英語が非常に堪能だった。この日英バイリンガルの大先輩は「日本語を廃止して、英語を日本の国語にすべきだ」と考えていた。漢字の複雑さを特に問題視していたようだ。
    確かに、明治初期の漢字は今よりも複雑で数も多かった。話し言葉は口語、書き言葉は漢文という不自由な習慣もあった。西洋に後れた政治や経済、科学などの学習に必要不可欠な英単語は、日本では概念すら存在しないものが多かった。
    例えば、「社会」「存在」「自然」「権利」「自由」「個人」「品性」「人格」「情報」「近代」「美」「恋愛」「芸術」「彼・彼女」などの言葉は、江戸時代の日本にはなかった。明治期の先人が苦労を重ねて生み出したのだ。
    もし、これらの言葉が使えなかったら、日本語の文筆作業は相当もどかしい。だから、当時の森の気持ちも理解できるが、現代から見れば、満41歳で暗殺された森の考えは若気の至りだった。
    ところが、本当に漢字を廃止して、独自の表音文字だけにした国が、日本の近くに存在する。結果、国民の大多数が、わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない。
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    悲劇と呼ぶべきか、喜劇なのか。それが問題だ。
    http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150325/dms1503251140002-n1.htm

河野談話の問題点は、いろいろ指摘されているが、実際の河野談話はあまり知らない。産経に掲載されていたので2013/10/16

投稿日: 2013年10月17日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

河野談話産経20131016_ページ_1

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日)】

 この談話の主な問題点は次の三点に要約できると思う。

①用語の不適切

「従軍看護婦」と違って、旧日本軍隊に「従軍慰安婦」という用語も実態もなかった。頭に「いわゆる」という断りがあるとは言え、「従軍慰安婦」という用語を二箇所で使い、そのような組織を持っているかのような印象を世界に与えている。

 そもそも「従軍慰安婦」という用語を使って記事を捏造したのは朝日新聞である。1992年1月に朝日新聞が「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していた」と報じたことが誤解を生む発端であった。

②証拠もない官憲等の強制性の認知

 「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と、証拠もない(下記「注」参照)のに、官憲等が直接強制募集に加担していたと認めている。

注;談話発表後に記者から、強制連行の客観的資料は見付かったのかと質問されたが、河野氏は具体的な資料は示せなかった。

 なお、第1次安倍内閣は2007年3月、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定している。

③政府の判断間違い

 当時、韓国政府は日本政府が強制連行を認め易くするために、日本には金銭的補償は求めない、補償の必要があれば、韓国政府の責任において行うと明言した。強制連行を認めれば、この問題は解決すると思った日本政府が馬鹿だったのである。結果として全世界から誤解されてしまった。外交のイロハを認識していない政府と世論(マスコミによって作られる)によって、国益が失われている例はこの問題に限らないが…。

河野談話産経20131016_ページ_3河野談話産経20131016_ページ_4河野談話産経20131016_ページ_2

セィゴドン?

投稿日: 2013年8月23日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

西郷隆盛 本当の顔 本物の写真 フルベッキ写真 13人撮り写真 

 

 image
※一般的な西郷隆盛の肖像写真。

今まで一般的に、西郷隆盛の肖像写真だと思われてきたものについて、近年疑問が投げかけられています。

西郷隆盛の本物写真、本当の顔はどれなのか?

西郷隆盛の姿については、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に立ち会った、妻の西郷いとが、「うちの人はこげんおひとじゃなか。」と言ったエピソードなどが有名です。

TOPに掲載した2枚の画像は、今まで学校の教科書にも使用されてきた、有名な西郷隆盛のイメージ写真ですが、「フルベッキ写真」の発見以降、本当に西郷隆盛なのか?ということが話題になっています。

imageこれがフルベッキ写真です。

image写っている人物の詳細はこちら。

この写真中央に写っている大柄ないかつい顔の人物が西郷隆盛だというのです。

この人物はまた、会津藩から見つかったいわゆる「13人撮り写真」にも写っており、西郷隆盛説がさらに盛り上がることになりました。

image※会津藩で発見された「13人撮り写真」。右端の人物がフルベッキ写真の西郷隆盛と同一人物。

写真を拡大して比較してみましょう。
 image
左:フルベッキ写真        右:13人撮り写真

これは同一人物のようです。

しかし、人相判断に勘のいい人はあきらかな違いに気が付くかもしれません。そう耳です。整形でも耳の形は変えにくいとされていますが、このフルベッキ写真と13人撮り写真でもあきらかに耳の形が異なります。

フルベッキ写真の方は耳たぶが伸びて、いわゆる福耳、一般的な西郷隆盛の肖像画に近い耳になっています。一方、13人撮り写真の方はいわゆる平耳です。

このことは13人撮り写真を発見した加治将一氏も言及していて、フルベッキ写真は修正されていると述べています。フルベッキ写真には「写真修正=田中」と書かれており、修正されたことがコメントされています。具体的にどこを修正したのかまでは不明ですが、それが西郷隆盛の耳だった可能性は否定できない、ということです。

後掲する2013年4月の読売新聞の記事に掲載された写真の「西郷隆盛」も平耳に見えます。

さて、はたして、この人物は本当に西郷隆盛なのでしょうか?

この記事TOPに掲載した一般的な西郷隆盛のイメージ写真は、西洋人画家キヨッソーネが親族の写真を合成したモンタージュであるといわれて言ます。

写真の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌だという説が濃厚です。
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左:西郷従道                 右:大山巌

西郷隆盛と、西郷従道、大山巌の関係は次のようになります。
大山綱広━綱栄━綱道━綱毅━競子
              ┃
              ┣━━┳成美
              ┃  ┣巌━━━┳高
       西郷隆充┳大山綱昌 ┗誠之助 ┗柏━┳梓━━由美子
           ┃       ┃     ┣桂
           ┗吉兵衛┳隆盛━菊子    ┣檀
               ┗従道       ┗咲子
                          ┃
                          ┃
                          ┃
                 内田耕四郎━━大山健次

ここに、また新たな説があります。

西郷隆盛は暗殺を警戒して写真を残さなかったといわれています。しかし、江戸城の御用写真家で明治天皇の写真も撮影した内田九一が撮影した、薩摩藩士の集合写真に写っている人物が西郷隆盛ではないか、という説です。

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※薩摩藩士を撮影した古写真。右から二人目が西郷隆盛の本当の写真と言われている。

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※本物の西郷隆盛の写真。拡大図。

一体どの説が本物の西郷隆盛の写真を示しているのでしょうか?

このような中、2013年4月23日、読売新聞にフルベッキ写真に関する興味深い記事が掲載されました。フルベッキ写真は、従来言われていたような維新志士の写真ではなく、佐賀藩の藩校の生徒を映したものではないか、という説です。

この写真には、フルベッキ写真、13人撮り写真で、西郷隆盛ではないか、といわれていた人物がはっきりと写っています。
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※新たに発見されたガラス原版。右端が西郷隆盛とされてきた人物。フルベッキも写っている。

記事全文を引用します。

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒

 佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830~98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。

 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。

 興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。

 しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。

 原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)
 写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)
 写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている(倉持さん提供)

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

ますます、混沌としてきた西郷隆盛の真の肖像。