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関西歴史事件簿 本能寺の変

投稿日: 2013年5月3日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀が

キレた? 謎を呼ぶ謀反の真相 

 

明智光秀(右)と織田信長像(左)

明智光秀(右)と織田信長像(左)

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。

事件現場の風景

 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。

 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。

 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。

 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。

 旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。

現場周辺の風景

 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。

 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。

そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。

 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。

事件前の風景

 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。

 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。

 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。

 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。

 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。

天正10(1582)年6月2日午前4時ごろ、中国地方の毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉の援軍要請もあり、京都・本能寺に宿泊中の織田信長は外の騒がしい物音で目が覚めた。

 最初に異変に気付いたのは本能寺門前にいた信長の家臣、村井貞勝といわれている。貞勝も信長も最初は誰かのけんかかと思っていた。

 だが、多くの旗が寺のまわりを取り囲んでいることに気づき、近くにいた小姓の森蘭丸に「謀反? 誰のたくらみか」と聞くと、蘭丸は「旗の家紋がキキョウ。明智光秀のようです」と答える。

 蘭丸はすぐに寺を脱出することを信長に進言したものの、1万3000の明智軍に対し「多勢に無勢」を悟った信長は、「是非に及ばず」と一言。弓を持ち出した。

×  ×  ×

 本能寺の変の1カ月前の5月、かつては戦国最強とうたわれた武田軍を天目山で壊滅させ、四国の長宗我部軍、北陸の上杉軍は信長に対抗する力はなく、中国の雄・毛利軍とも優位に戦いを進めていた。

 すでに天下統一も目前というところで秀吉から援軍要請。低湿地に囲まれてなかなか落とせない備中高松城に4万の毛利輝元軍が接近しつつあるという状況に、おそらく信長は毛利壊滅のチャンスと思ったのだろう。

 信長が自ら備中へ向かうため光秀に先陣を務めるように命令する。このとき信長が本能寺に連れてきた家臣は20~30人とも160人ともいわれている。

 当然、信長本隊の警護が手薄なことは承知していた明智軍は空が白みかけたころ、寺に向けて発砲すると同時に明智光春らが四方から一斉に境内になだれ込んだ。

 弓を持って応戦した信長だったが、数本の矢を撃ったところで弓が折れる。すると今度は薙刀(なぎなた)に持ち替えて奮戦するも、左肩に銃撃を受けるなどしたため、ついに断念する。

 信長は女衆に逃げるように指示した後、奥にこもって「誰も入れさせるな」と寺に火を放つよう蘭丸に指示。自刀して果てた。

 これに対し、村井貞勝は本能寺から北約1キロ離れた妙覚寺に滞在中の織田信忠に光秀の謀反を報告。信忠は寺を出て、隣の二条御新造で光秀勢を迎え撃つことを決意する。

 だが光秀の大軍にはかなわず、城に火をつけて自刃してしまう。以降、織田家は衰退の道をたどる。

 天下統一を目前にした信長の油断が招いた光秀のクーデター。わずか数時間で日本の権力構造が一変する日本歴史上ショッキングな事件となった

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日本の正式な国名は「日本国」に非ず!! 日本は今でも「大日本帝国」である

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

「日本の正式な国号(国名)は一体何でしょう?」と質問されたら、皆さんはどの様に答えられるでしょうか? 先(ま)ず百人中、百人が「日本国」と答えるでしょう。しかし、私は敢えて言います。日本は今も尚、

大日本帝国

なのだ、と。では、何故(なぜ)、そう言えるのか? と言う訳で、今回は、日本の国号問題について書いてみたいと思います。

ず、最初に、「日本国」と言う国号について触れてみたいと思います。この「日本国」と言う国号が、「大日本帝国」に代わって登場したのは、昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌昭和22(1947)年5月3日に施行された『日本国憲法』に於いてです。それでは、国号がどの様な経緯を経て、「大日本帝国」から「日本国」へと変更されたのか?と言う事ですが、実は、昭和天皇が「国号変更に関する詔勅」なるものを渙発(かんぱつ)された訳でも無ければ、帝国議会に於いて国号変更に関する法律が可決成立、施行された訳でもありません。つまり、「大日本帝国」から「日本国」への国号変更は、法的手続きを経(へ)る事無く、『日本国憲法』の名称・条文中に於いて唐突に行われた訳です。

「日本国」への国号変更は、法的手続きを経る事無く、『日本国憲法』の誕生と共に行われた。端的に言えば、そう言う事になる訳ですが、果たして、その様な事が法理面から言って、罷(まか)り通る事なのか?と言う疑問が出てくるのも当然です。この事について、ある法律専門家に照会した所、この様な回答が返ってきました。

「『国号』は、国家の基本法である『憲法』で定められる事を原則とします。我が国の国号が『日本国』である事は、『日本国憲法』第1条の規定

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

から見て、疑問の余地はありません。」

つまり、法理面から見れば、『日本国憲法』の施行を以て、日本は「大日本帝国」から「日本国」へと国号を変更した事となり、正当な手続きを踏んでいると言う事になる訳です。しかし、私はそれでも敢えて、

日本は今でも「大日本帝国」である

と断言します。

「日本国」と言う国号は『日本国憲法』に依拠している、と書きましたが、では、その依拠の元となっている『日本国憲法』は果たして正当なものなのか? 私は、以前のコラム120.「不磨の大典『日本国憲法』は国際法違反の産物」に於いて、『日本国憲法』が法的には無効である、と喝破(かっぱ)しました。何故、無効なのかについては、同コラムをお読み頂くとして、『日本国憲法』が法的に無効である以上、それに依拠して為された「大日本帝国」から「日本国」への国号変更についても、法理面から見て無効であると言う事になります。それは裏を返せば、「大日本帝国」と言う国号が正当なものであると言う事にもなる訳です。とは言え、

「いやいや、そんな事言ったって、21世紀にもなって、今更、日本は「大日本帝国」だなんて言われても実感なんて湧かないし、まして、前近代的な「帝国」だなんて・・・」

と言った声も聞こえてきそうですね。確かに、広い世界を見渡しても、「帝国」と名の付く国は一つもありません。しかし、日本が「帝国」である事は紛れもない事実なのです。

前も取り上げた事ですが、日本の「天皇」は英語で「エンペラー」(Emperor)=「皇帝」と呼ばれています。(但し、隣の韓国では今尚、『日王(イルワン)』、と「エンペラー」よりもワンランク下の「キング」(King)扱いですが) しかも、この「エンペラー」は世界中で日本の「天皇」唯(ただ)一人。どうりで、世界中をくまなく探しても「帝国」が見つかる筈がありません。何故なら、

「帝国」とは「皇帝(エンペラー)」が統(す)べる国

の事だからであって、「皇帝」もいないのに「帝国」を名乗る国のある方が不自然な訳です。(欧州を中心に、「キング」=「国王」がいる国は、今でも「王国」を名乗っている) そして、「エンペラー」=「天皇」がいる国、日本が広い世界で唯一、「帝国」を名乗る資格を有しているのです。とは言え、こんな事を仰(おっしゃ)る方もいる事でしょう。

「日本は戦前の『軍国主義』と訣別し、『現人神(あらひとがみ)・国家元首・大元帥(だいげんすい)』だった天皇も、『日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』として実権を持っていない。現に、政務は内閣総理大臣が執(と)っているし、『帝国』どころか、民主主義に基づいた『共和国』と言っても過言では無い」

果たして、本当にそうなのでしょうか? それこそ、とんだ勘違いだと思うのです。

もそも、「『帝国』とは何ぞや?」と言う疑問に対して、私は「『帝国』とは「皇帝(エンペラー)」が統べる国」と答えました。これは、「帝国」の語句を入れ替えれば、そのまま、「王国」にも、ルクセンブルク「大公国」にも、モナコ「公国」にも当て嵌(は)まる話です。「帝国」と言うと、どうも、ロシア帝国や、ドイツ第二帝国(プロイセン)の様な絶対王政国家(専制君主制)が真っ先に思い浮かぶ様ですが、それは18世紀から19世紀にかけて「流行」した政体であって、必ずしも「帝国」とイコールではありません。例えば、タイは国王を戴(いただ)く「王国」ですが、憲法があり(立憲)、政治も首相を長とする政府(内閣)が担当しており、普段、国王は政治に口を挟(はさ)みません。しかし、クーデターが発生する等して、国内が乱れた際には、国王は「調停者」として機能、その一言々々が絶大な発言力を有します。つまり、タイの政体は「立憲君主制」であり、国王に絶大な権力が集中する「専制君主制」では無い訳です。更に言えば、どんなに民主化しよう共、「国王」を戴き続ける限り、その国家は「王国」である訳です。これは、日本にも当て嵌まる事です。日本が憲法を持ち(立憲)、国民によって選ばれた議員によって国会が営まれ(議会制民主主義)、その国会議員の中から首相以下閣僚(一部、民間人の起用が可能)が選ばれ内閣を組織(議院内閣制)し実際の政治を行っているとしても、「天皇」=「エンペラー」を戴いている以上、立憲君主制の「帝国」である事は疑うべくも無い事なのです。

後に、「国璽」の話でこのコラムを締め括(くく)りたいと思います。先ず、「国璽」が一体何なのか?と言うと、早い話が、「国家の実印」の事です。

 国璽 (こく-じ)
国家の表章として押す官印。我が国では明治元(1868)年初めて使用。現行の物は明治7(1874)年に改刻された方3寸の金印(それ以前は、方2寸7分の銅印)で、京都の篆刻家、安部井櫟堂(あべい-れきどう)による作。『大日本帝国憲法』下では、批准書・全権委任状・信任状等の国書・親書及び勲記等に用い、御璽(ぎょじ:天皇の金印)と共に内大臣が保管したが、現在は勲記にのみ用い、侍従職が保管。

その「国璽」には一体何と刻まれているのか? それが何と、「大日本国璽」(下写真が印影)

 

と刻まれているのです。現在の国号は「大」の字を冠さない「日本国」と言う事になっているにも関わらず、「国璽」に刻まれている文字は「大日本」。とは言え、中には、こんな事を仰る方もいる事でしょう。

「『大日本帝国国璽』と言った具合に『帝国』の文字が入ってはいないし、刻まれている『大日本』にしても、『大』の字は単なるお飾りなのでは?」

いえいえ、とんでもありません。現在使われている「国璽」は明治7(1874)年に鋳造された物で、れっきとした「大日本帝国」時代の代物。裏を返せば、国号が「大日本帝国」から「日本国」に変更されたにも関わらず、「国璽」は「大日本帝国」時代の物をそのまま使い続けている訳です。(漏れ聞く所に拠ると、GHQによって『日本国憲法』が「制定」された際、これを快く思わなかった関係者が新国号「日本国」に見合った「国璽」を新造する事無く、敢えて、「大日本帝国」時代からの「国璽」を踏襲する事で「抵抗」の意を示したとか)

(いず)れにせよ、

  1. 「日本国」と言う国号は『日本国憲法』に依拠しているが、その『日本国憲法』が国際法違反の産物である以上、それに依拠している「日本国」と言う国号に正当性は認められない。
  2. 日本が天皇を戴く国家である以上、たとえどの様な政体であろう共、「帝国」である事に疑問の余地が無い。
  3. 日本の「国璽」は、「大日本帝国」時代の物を未だに用いており、その刻印には「大日本」と刻まれている。

である以上、日本の国号が、誰もが疑問を持つ事さえ無かった「日本国」では無く、「大日本帝国」である事は疑うべくも無い事なのです

朝鮮総督府に見る「日帝」の功績

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

治43(1910)年の「日韓併合」から、昭和20(1945)年の「光復」(独立)に至る日本の朝鮮半島支配を、コリア人は「日帝(イルチエ)36年支配」と称して、「この世の生き地獄」であったかの様に主張します。しかし、本当にそうだったのでしょうか? 今回は、彼らコリア人が忌み嫌い、そして「憎んだ」朝鮮総督府(上写真)の功績について書いてみたいと思います。

くコリア人は、「日帝支配」 ── とりわけその先兵だった朝鮮総督府を、「悪の権化」の様に扱います。彼らコリア人に言わせると、「日帝の七奪」(国王・主権・土地・資源・国語・人命・姓名の七つを奪ったと言う)を実行した張本人で、朝鮮半島を荒廃させ、コリア人を塗炭の苦しみに陥れた事になるのですが、これはどう見ても明らかな歴史歪曲です。国王(国家元首)・主権(国家主権)・土地(領土)は、日本による強制的併合ではなく、両国の合意の下での併合でした。又、資源の奪取(搾取)については、併合時、とりたてて資源と呼べる資源が朝鮮半島には存在しませんでした。資源と呼べる資源が無かったのに、どうして、資源の奪取が出来たのでしょうか? 不思議で仕方ありません。更に、国語(朝鮮語)の「禁止」ですが、実際には朝鮮語の禁止はされてはいません。例えば、玄永燮(ヒョン・ヨンソプ:「日本人以上の日本人」と呼ばれた)・朴煕道(パク・ヒド:「三・一独立運動」時の民族代表の一人)等が南次郎総督に、「朝鮮語使用の全廃」を建議した際、南総督はむしろ極力反対したと言われています。そして、コリア人は触れたがりませんが、戦後、「コリア人の誇り」と呼ばれた、あの「ハングル」をコリア人に普及させたのは、「国語を奪った」と言われている朝鮮総督府だったのです。今でこそ、「コリア人の誇り」と呼ばれる「ハングル」は、併合当時、両班(ヤンバン)に代表される知識人階級からは、「アムクル」(女文字)・「アヘックル」(子供文字)等と蔑(さげす)まれ、一般コリア人には全く普及していなかったのです。(何せ、李朝第10代国王・燕山君(ヨンサムグンが「ハングル教授学習禁止令」を出し、第11代・中宗(チュンジョン)は「諺文庁」を閉鎖したくらいですから、推して知るべしです) この様に、「日帝の七奪」が歴史歪曲である事がお分かり頂けた事と思います。これらは、戦後、韓国においては、李承晩(イ・スンマン)・初代大統領の、北朝鮮においては、金日成(キム・イルソン)・国家主席の徹底した「反日(コリア民族賛美)教育」による所が大きいのです。そして、多くのコリア人が、未だその「呪縛」から抜け出す事が出来ないでいるのです。

て、いよいよ「本題」である朝鮮総督府の「功績」について書いてみたいと思います。まず第一に知って頂きたい事は、日本は朝鮮半島を「搾取」したどころか、反対に日本本国から莫大な資金を朝鮮半島に投資したと言う事実です。「日韓併合」以来、年に一千数百万円から二千万円(当時の金額)もの一般経費補充金が、朝鮮総督府特別会計に補填され、その財政運営を支え続けたのですが、これらの資金はコリア人から搾取したものではなく、日本の国家予算(とどのつまりが、日本国民から徴収した「血税」)や、日本の金融市場で調達した公債だったのです。当時、帝国主義の時代、世界中のどの植民地政策を見ても、植民地(厳密に言うと、朝鮮半島は日本の植民地ではないが)に対して本国政府が莫大な資金を投資した例は希有でした。多くは、本国政府が植民地から利益を吸い上げていた訳で、日本の植民地政策の「特異性」とも言えます。つまり、コリア人が言う所の「搾取」は、「真っ赤な嘘」だった訳です。

二に、朝鮮半島のインフラを整備したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。戦後、韓国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる国家の復興と高度経済成長を自慢しますが、その多くは、「日帝時代」に整備されたものなのです。朝鮮半島全土に張り巡らされた道路網・鉄道網・港湾施設等の交通インフラは、朝鮮総督府時代に、日本から投資した資金を元手にして建設整備されたのです。そして、その多くが現在でも利用されているのです。(以前、「漢江の奇跡」時代に突貫工事で建設された橋が自動車の重みで落下した事故があったが、それ以前 ── 「日帝時代」に建設された橋は今尚、現役で活用されている) この交通インフラの整備によって、「陸の孤島」同然だった町や村が接続され、人や物資の往来が活発となり、その結果、朝鮮半島の近代化が加速したのです。又、鉄道網や都市整備が進むと、必然的に電力の確保が必要となります。そこで、炭鉱・砂防・治水・電力・通信網(電信電話施設)の開発整備をも進んだのです。

三に、食料の自給体制を確立したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。朝鮮半島は李朝末期、山は至る所、「禿げ山」。天候不順・農法の稚拙さ(粗放農業)と、両班等による度重なる過酷な搾取によって農民達は労働意欲を無くし、農地の荒廃が進んだのです。元々、粗放農業で収穫率が低かった(「天水田」で、三年一作)所へ持ってきて、農地の荒廃が進んだので、朝鮮半島は現在の北朝鮮同様の、慢性的な食糧不足 ── 飢餓状態に陥っていたのです。そこで、朝鮮総督府は、治山・治水工事を筆頭に、荒れ地の開墾・干拓・灌漑用水の整備と農業インフラの整備をし、更に、粗放農業から集約農法へと転換させ、冬季等の農業閑散期には在宅副業等を奨励し、農民の意識と生活水準の向上を図ったのです。その結果、慢性的な食糧不足に苦しんでいた朝鮮半島は米の増産に成功し、遂には内地(日本本土)へ「輸出」する迄になったのです。

後に、悪名高き「創氏改名」について書いてみたいと思います。「創氏改名」と言うのは、コリア人の名前 ── つまり「朝鮮名」を、「日本名」に改名させたと言われるものです。しかし、実際の所、「創氏改名」は朝鮮総督府による「強制」では無く、コリア人側からの要望でなされた措置で、「自己申告」制だったのです。(「創氏改名」と言い、「日韓併合」・「日本語教育」と言い、コリア側から発議されたものが、「日帝」による強制に変わってしまうのですから、何とも釈然としません) この「創氏改名」は内地に出稼ぎ労働に来たコリア人が、コリア人である事で、待遇等で「差別」されない様に、「日本名」を名乗る事を許可した措置なのです。そして、「創氏改名」は、日本とコリアが「同文・同種」で「同祖」であると言う思想(「日韓併合」・「日鮮合邦」の根本理念)に基づいたもので、現に、朝鮮半島と同様に、総督府が設置されていた台湾に対しては、「創氏改名」は許可制で、その審査基準も極めて厳しいものでした。又、「創氏改名」がコリア人を「人種差別」する為になされた措置だと主張する人がいますが、これも違います。例えば、朝鮮半島出身の生粋のコリア人であるにも関わらず、帝国陸軍に入隊し、遂には「陸軍大将」と言う陸軍最高の地位にまで登りつめ、最後まで「帝国軍人」として自らを全うした人もいました。もし、日本がコリア人に対して政策としての「人種差別」をしたと言うのであるならば、この逸話はどう解釈すればいいのでしょうか?(日本人であっても、「陸軍大将」にはおいそれとはなれないものです)

上、簡単に見てきましたが、如何だったでしょうか? コリア人によって「悪の権化」 ── 「日帝36年支配」の代名詞とされた朝鮮総督府。しかし、その実態は、朝鮮半島の近代化に多大な貢献を果たした存在だったのです。コリア人が、「負の遺産」としての植民地支配を声高に叫ぶのも結構ですが、「正の遺産」としての朝鮮総督府による朝鮮半島近代化の功績も認めるべきではないでしょうか? それが「フェア」な物の見方と言うものだと思うのですが・・・。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

本の過去の戦争責任でよくやり玉に挙げられるものに、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」があります。「南京大虐殺」については多分に支那の「歴史捏造」の所産であると私自身思っていますが、今回は、もう一方の「従軍慰安婦」問題について考えてみたいと思います。

 

「従軍慰安婦」。日本軍が戦時中、コリア人や支那人等の若い女性を組織的に連行して、日本兵の溜まっている「性欲のはけ口」にしたと言われているもので、現在も保障を求めるコリア人女性が日本政府を相手取って損害賠償請求裁判を求めています。しかし、はっきり言いましょう。「従軍慰安婦」等と言うものは、当時、存在し得なかったと。それは、なぜか? まず、「従軍慰安婦」なる用語は戦後生まれたもので、当時は存在しなかったからです。又、「従軍慰安婦」問題で、日本の進歩的文化人や支援者達は「女子挺身隊」と混同しますが、「女子挺身隊」は軍需工場等で、落下傘(パラシュート)や兵器の生産に従事した女性達の事であって、決して、「売春」を生業(なりわい)とはしていませんでした(私の伯母も「女子挺身隊」だった)。そして、決定的な事ですが、「従軍慰安婦」は明らかに歴史捏造の産物だと言う事です。

 

成3(1991)年末、かの『朝日新聞』が「従軍慰安婦」問題で徹底的な糾弾キャンペーンを展開した事がありました。この時、吉田清治(よしだ-せいじ)氏の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)の「慰安婦狩り」の問題が、

 

「済州(チェジュ)島にて軍の協力により、慰安婦狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した」

 

と言う記事として掲載されました。しかし、その後、千葉大学の秦郁彦(はた-いくひこ)教授の実地調査では、吉田氏の著書は「捏造」である事が発覚(その報告は『正論』1992年6月号 に詳しい)。又、『週刊新潮』1995年1月5日号 の取材結果でも、事実無根である事が判明。当の著者も「あれは創作だった」と認めたのです(記事捏造がお得意な、天下の大新聞『朝日新聞』の面目躍如ですね>笑)。 では、世に言われる「従軍慰安婦」は全く存在しなかったのでしょうか? 実は存在していたのです。しかし、その実態は、戦後言われるようになった「従軍慰安婦」とは全く違うものだったのです。

 

時中、「従軍慰安婦」は存在した。この一語を以て、進歩的文化人や支援者達は小躍りするかも知れませんが、それは彼らの早合点と言うものです。私が言いたいのは、民間業者が日本軍向けに行っていた「売春」は存在しただろうが、日本政府・軍が「国策」として、「従軍慰安婦」に関与した事実は無いと言う事です(両者を混同すべきではない)。まず、当時 ── 戦後になって「従軍慰安婦」と呼ばれる事となる女性達の多くが、大和撫子(やまとなでしこ) ── 「日本女性」だったと言う事実です。そして、彼女達は「強制連行」されて来た訳ではなく、自ら「志願」してその世界に飛び込んだと言う事実です。よく、「従軍慰安婦」と言うと、軍の管理する施設に「隔離」され、外界とは接触を許されずに、来る日も来る日も、日本兵の相手をさせられたと言う事になっていますが、これも虚偽です。彼女達は、食べ物にも事欠くご時世の中、「三度の飯」が保障される「従軍慰安婦」の世界に自ら飛び込みましたが、軍の管理する施設に隔離等されてはいませんでした。又、時として、「客」として通ってくる常連兵士と街に出て、ご馳走を飲み食いし、ダンスを踊ったりして楽しんだ共言います。こう言う証言に接すると、当時の「従軍慰安婦」達と、現代の風俗嬢達と、一体、待遇で何処が違うのか?と考えざるを得ません。

 

かし、それでも、進歩的文化人や支援者達は「従軍慰安婦」はあった!! 「日本軍による強制連行」はあった!! と声高に叫ぶでしょう。しかし、戦後半世紀を経た今の今迄、何一つ、「日本軍による強制連行」を裏付ける明確な資料は見つかってはいません。あるのは、損害賠償を求める「被害者」達の証言だけ。日韓両国間での戦後賠償が決着済みな事もありますが、証拠資料が無い現状では、たとえ裁判をしたとしても、裁判と言う裁判になる訳もなく、事態がより混迷・複雑化するだけです。又、当時は、「公娼制度」 ── つまり「売春」が公認されていた時代です。当時の日本同様に、朝鮮半島の貧村の食うや食わずの家庭で、親が自分達の娘達を「身売り」した事もあったでしょう。とすると、親に「身売り」された共知らない女性が、女衒(ぜげん:遊女等の口入れ手引きを生業とする仲介業者)を日本軍の差し向けた「強制連行」の実行者と、思い違いをしたとしても何ら不思議では無いのです。

 

後に、「従軍慰安婦」を声高に叫ぶコリア人に問いたいと思います。コリアでは中華秩序 ── 朝貢制度によって、宗主国・支那と属国・コリアと言う関係が成立して以来、歴代コリア王朝は、歴代支那王朝に対して、「貢女」(コンニイ)と呼ばれる若い女性 ── つまりは「宮廷慰安婦」を「献上」しており、コリアは「貢女」の名産地として有名でした。又、李朝時代には、「妓生庁」と言う役所を設置し、国家管理下に、「妓生」(キーセン)を育成していました。そして、この伝統は、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が推進した国策としての売春観光政策(キーセン・ツアー等) ── 「売春立国」や、北朝鮮の最高指導者・金正日(キム・ジョンイル)肝煎(きもい)りの「喜び組」として脈々と受け継がれているのです。こう見てくると、コリアにおける「貢女」・「妓生」・「売春立国」政策・「喜び組」と、「従軍慰安婦」の何処がどう違うのか? と考えざるを得ません。この点を明確にしないまま、日本の「従軍慰安婦」を殊更(ことさら)問題にするコリアの不条理こそ、問題ではないでしょうか?

 

 

国人が日本の「従軍慰安婦」問題を声高に叫ぶのも結構だが、朴正煕政権時代、東ソウルの漢江(ハンガン)べりの高台に、通称「ウォーカーヒル」と呼ばれる「在韓米軍将兵慰安総合遊興村」を設置した事実を知っているのだろうか? もし、韓国女性を「性の道具」としたとして日本人を糾弾するのであるならば、アメリカ人に対しても同様に糾弾の矛先を向けるべきではないだろうか? アメリカ人はよくて、日本人はけしからん!! と言うのであるならば、それは、日本人に対する韓国人の「人種差別」とは言えないだろうか?

 

参考文献

 

  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

コリア人が待望していた「日韓併合」 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

治43(1910)年8月22日、「韓国併合についての日韓条約」が調印され、大韓帝国は大日本帝国に併合されました。いわゆる「日韓併合」(日鮮合邦)です。これをコリア人は「日帝」(日本帝国主義)による「強制的併合」であり類い希なる「暴挙」だと主張します。まあ、コリア人の「愛国心」や「民族主義」についてどうこうとは言いません。しかし、「日韓併合」における日本の「立場」が一方的に糾弾・断罪される事には承伏出来ないのです。と言う訳で、今回は「日韓併合」についてコリア人への反論をしてみたいと思います。

ず、皆さんに第一に知って頂きたい事は、当時の大韓帝国(1897年、国号を朝鮮国から大韓帝国に改称。以下、「韓国」と省略)が、企業で言えば「倒産寸前」だったと言う事です。「開化派」が甲申政変を起こしたのも、倒産寸前だった李朝を自主再建しようとしたからです。何しろ、国土は荒廃し、慢性的な食糧不足に陥り、政治は腐敗の極に達しており、いつ国家が倒産してもおかしくはなかったのです。そんな実情を見て、日本は日清戦争後、韓国との間に協約を締結し、「保護国」として再建させようとしたのです。この保護国化をコリア人は、「日本は最初から韓国を植民地化する肚(はら)だった」等と主張しますが、それは違います。初代韓国統監となった伊藤博文や井上馨等はそもそも「日韓併合」には消極的でした。考えてみて下さい。健全な体力を持っている企業が、明日倒産するかも知れない企業をそう簡単に吸収合併するでしょうか? あの大国・西ドイツでさえ「東西ドイツ統一」後、旧東ドイツ地域の再建復興に四苦八苦したのですから。現在の韓国と当時の韓国とを同じ目で見てはいけないのです。現在の韓国の様にある程度の国力を備えていたなら、日本にとっても非常に「魅力的」だったかも知れません。しかし、当時の韓国は倒産寸前。日本が「日韓併合」に踏み切ると言う事は、取りも直さず相当なリスクを抱え込むと言う事だったのです。それを如実に示しているのが、当時の日本の「韓国併合反対」論です。その論旨は、「韓国は経済文化レベルが低く、清・露両国と国境を接し、国内政治は党派対立が激しく、官吏の腐敗は極に達しており、政治・経済・文化・社会・国防等非常に問題が多い。その様な韓国を併合すれば、日本は多大な負担を強いられる」と言うものでした。正にその通りだったのです。

て、そんな倒産寸前だった韓国を日本はあえて「保護国」化したのには、当時の日本の朝鮮観が多大な影響を及ぼしていました。それは欧米列強による植民地化や隷属化とは違い、「朝鮮人を扶掖して、日進文華の民となし、帝国の臣民として、永く安寧秩序を完(まっと)うせしむるにある」と言うものでした。つまり平たく言えば、「倒産寸前の『韓国株式会社』に救済の手を差し伸べようではないか」と言う訳です。これが「大きなお世話」だと言われてしまえばそれ迄ですが、日本は「韓国保護国化」後、本国(日本)から莫大な資金を投じて、韓国を支え続けました。韓国中央銀行を設立して金融の建て直しを図ったり、鉄道交通網を整備して近代化の礎を築いたりと言った具合で、コリア人に感謝こそされ、恨まれる覚えはないのです。それでも、韓国政府は日本に恩を徒(あだ)で返すような挙にばかり出ました。それが、高宗によるハーグ密使事件や、閔妃等によるロシアへの接近だったのです。そんな中、日韓双方に新たな模索が始まっていたのです。

ーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」と言った日韓併合・合邦論が急速に台頭してきたのです。又、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだしたのです。

 治42(1909)年12月4日、一進会が百万会員の名において、韓国皇帝(高宗;右写真)・曾禰荒助統監・李完用(イ・ワンヨン)首相宛に、「韓日合邦」の奏上文(請願書)を提出したのです。この一進会は、宋秉畯(ソン・ピョンチュン)李容九(イ・ヨング)等によって明治37(1904)年8月8日に組織された政治結社で、その会員の多くは東学党教徒・独立協会員・農民で構成され「百万会員」を称しました。彼らは日韓両国が共同でロシアの南下を防ぎ、韓国の独立を保障してくれる(「日朝修好条規」で実証済)日本に多大な期待をし、日露戦争に際しては、京義線(キョンウィ:ソウル-義州間)臨時軍用鉄道建設と北進輸送隊への支援を惜しみませんでした。彼ら一進会の考えでは、「韓国の衰微は外国からの圧迫ではなく、自らの反省と自覚の欠如に原因がある。韓日は古来より同文同種(文化・民族の元は同じ)であり、政治経済的利益も一致している。ドイツ合邦国家(プロイセンを主体に統一したドイツ第二帝国)が欧州で覇を唱えるが如く、韓日も東亜の雄邦として合邦すべきである」・「もし東亜の均衡が破られ、韓国が欧米列強諸国の植民地となれば、韓国国民は流出し、国土は廃墟となる事は必定である」と言ったものでした。この様に韓国側でも「日韓合邦」(連邦制)が唱えられたのですが、結局、韓国は「合邦」(連邦)ではなく、「併合」(吸収合併)への道を歩んだのです。

進会の目指す政治的最終目標は、「日露戦争以来、韓国が置かれている「立場」(日本の保護国と言う従属関係)から脱し、植民地化を回避する手段として、「保護」に替えて「政合邦」(政治的合邦国家)する」と言ったものでした。しかし、宋秉畯は、「日韓双方の国力の差・文明の程度の差から「日韓対等合邦」は事実上不可能であり、「連邦制」では欧米列強に対抗する様な強固な国家は建設できない。従って、日韓が一体となり列強に伍す強固な国家を建設するには、大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に委譲するのが、最も現実的である」と主張したのです。そして、結果的に宋秉畯が唱えた通り、「日韓併合」がなされ、韓国は「独立国家」としての主権を完全に消失したのです。それは、さながら「倒産寸前」の巨大企業(韓国)が、世界的再編(帝国主義)の嵐の中で同業の巨大企業(日本)に吸収合併された様なものでしょうか。そう考えると、「日韓併合」とは、起こるべくして起きたとは言えないでしょうか。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

朝鮮半島を帝政ロシアより防衛せよ!! 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

申政変の翌年 ── 明治18(1885)年1月9日、日朝両国は「漢城(ハンソン)条約」を締結しました。これによって日朝両国はようやくクーデターの政治決着を図りました。更に、4月18日には日清両国の間に「天津(テンチン)条約」が締結されました。これによって、ようやく日清両軍は朝鮮半島から撤兵し、又、重大事態に伴い朝鮮半島に軍を派遣する場合、日清両国は互いに事前通告する事としたのです。ここで言える事は、甲申政変が結果的に朝鮮半島から外国軍隊(この場合、日清両軍。特に清軍)の撤兵を可能にしたと言う事です。この後、清朝による軍事的圧力と言う「おもし」が取れた李朝が、自らの手で近代化を推進していれば、歴史はもう少し変わったかも知れません。しかし、折角のチャンスを李朝は自ら「台無し」にしてしまったのです。

城条約が締結された明治18(1885)年、李朝は極東ロシアの軍事都市・ウラジオストック(浦塩斯徳)へ国王・高宗の密使を派遣しました。密使の目的、それは、何とあろう事か李朝が帝政ロシアの保護下に入る密約を締結する為だったのです。

朝露密約の概要

  • 金玉均がウラジオストックに渡った際には、ロシア官憲が逮捕し朝鮮側に身柄を引き渡す。
  • 朝鮮の対日賠償金について、ロシアは日本に対して要求しないよう圧力を掛ける。
  • 第三国が朝鮮半島を侵略した際には、ロシアが軍事力を行使して朝鮮を保護する。
  • ロシアは皇帝の勅命を受けた大臣を漢城(ソウル)に駐在させる。
  • 朝鮮の海域はロシア海軍の軍艦が防衛の任に当たる。
  • 朝露両国間に陸路での通商を開く。

方、清朝より李朝に派遣されていた外務協弁のメルレンドルフが謝罪使(甲申政変時、漢城在住の日本人が朝鮮人暴徒と清兵によって略奪・暴行・殺害された事に対しての)として、2月下旬、来日した際、帰国する4月初旬迄のほとんどを、駐日ロシア公使館書記官スペールとの秘密交渉に費やしました。この交渉でメルレンドルフは、ロシアに対し軍事教官を李朝に派遣するよう打診したのです。つまり、李朝は日清両国と言う「圧力」が無くなり、「自主独立」を歩める素地が出来たにも関わらず、今度はロシアの勢力下に入ろうとしたのです。しかし、この朝露密約は幻に終わりました。天津条約によって、李朝は自主防衛の責任を負うと同時に、外国人武官を教官に招聘出来る事が条項に盛り込まれると、ロシアではなくアメリカから軍事教官を招聘する事を決定したのです。しかし、そんな事とは知らないロシア書記官スペールは、漢城に到着後、外務督弁の金允植(キム・ユンシク)に協約締結を迫ったのです。しかし、閔妃一派とメルレンドルフ等による独断専行だった為に、金允植は協約締結を拒否。この過程で、朝露密約が露見したのです。

露密約を知った日本は、それ迄コリアを巡って対立関係にあった清朝との協力(対露共闘路線)に傾き、李朝への柔軟路線(懐柔策)へと転換しました。しかし、この一件で日本は新たな戦略構築を迫られたのです。地図を広げてみれば分かる事ですが、朝鮮半島は大陸にぶら下がる形で位置しています。日本はその朝鮮半島の南側に下から覆い被さる様に国土を構えています。一見、何の変哲も無い様に見えますが、戦略上、これは非常に重要な事なのです。日本から見ると、朝鮮半島は喉元に突きつけられたナイフの様なものなのです。そして、この事が日本のコリア政策の一つの大きな要素となっているのです。朝鮮半島の後ろには清朝・ロシアと言う二大大陸国家が控えています。その内の一つ、清朝とは天津条約を締結し、朝鮮半島から撤兵させました。問題はロシアです。もし、朝露密約が現実のものとなり、コリアがロシアの勢力下に入ったら・・・日本はまさに喉元にナイフ(ロシアの軍事力)を突きつけられた形となるのです。

本にとってコリア ── 朝鮮半島は海洋国家(シーパワー:日本)と大陸国家(ランドパワー:シナ・ロシア)との「緩衝国家」である事が理想でした。つまり、海洋国家・大陸国家双方の支配を受けない「自主の邦」である事が好ましかったのです。その為に日本は日朝修好条規を締結し、李朝をれっきとした「独立国」として扱い、「開化派」をして近代化させようとしたのです。しかし、李朝はあくまでも大国清朝、日本、そして、ロシア)の保護下に甘んじようとしたのです。結果的に日本は、「李朝は自主独立を放棄した。李朝が(清朝や)ロシアの勢力下に入る事は日本の安全保障上、断固阻止しなくてはならない。従って日本は(清朝や)ロシアに代わって逆に李朝を勢力下に収めなくてはならない・・・」と言う主張が出てきたのです。これが朝鮮半島・遼東半島・満蒙へと続く陸軍の「北進論」へと繋がっていったのです。そして、明治27(1894)年、日本は清国と朝鮮半島の権益を巡って日清戦争を戦い、明治37(1904)年には、ロシアと朝鮮半島の背後・遼東半島と南満州の権益を巡って日露戦争を戦ったのです。この様に、二度に渡って東アジアの超大国を敵に回しての無謀な大戦争をした日本が、常に念頭に置いていたもの、それは、朝鮮半島の「ロシア化」であり、ロシアの南進(南下政策)に対する異常な迄の「恐怖心」だったのです。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • 歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

朝鮮を独立させたのは「日帝」だった!! 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

後、コリア(韓国・北朝鮮両国)は、戦前の日本植民地時代 ── いわゆる「日帝36年支配」を事ある毎に引っぱり出して来ました。それに対して日本も、これ又事ある毎に歴代の総理(政権)が「謝罪」を繰り返してきました。しかし、考えてみればある意味でこれは非常におかしな事なのです。なぜなら、コリアは、668年の新羅(シルラ,しらぎ)による朝鮮半島統一から ── 1897年、大韓帝国(旧称・李氏朝鮮)の成立に至る1200年間、実は「独立国」ではなかったからです。こんな事を言うと、コリア人は逆上するかも知れませんが、残念ながらこれは「事実」です。百済(ベグジェ,くだら)、次いで高句麗(コクリョ,こうくり)を滅ぼし朝鮮半島を統一(668年)した新羅は、その過程で東アジアの「超大国」唐の軍事力を利用しました。それが災いして、「戦後」、唐は新羅一国となった朝鮮半島を自らの領土にしようとしたのです。つまり、「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」と言う訳です。しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有(直接統治)を断念せざるを得ませんでした。ただ、その過程で新羅に対して、唐は自らの「属国」になる事を呑ませました。つまり、唐は新羅と言う「属国」を通して朝鮮半島を実効支配(間接統治)する道を選んだのです。こうして、唐に始まる歴代支那王朝(政権)を「宗主国」と仰ぐ「属国」コリアと言う関係 ── いわゆる「朝貢関係」が成立したのです。

て、こうして始まった「宗主国」支那と「属国」コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。例えば、国王。コリア(新羅・高麗李朝の歴代王朝)では、たとえ「世子」(皇太子)だったとしても、支那皇帝の承認がなければ王位を継承する事が出来ませんでした。又、コリア王の地位は、支那皇帝は元より、朝鮮駐箚(ちゅうさつ)(支那がコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治・軍事全般を監督させた)よりも、「下位」でした。

 

に元号(年号)。日本では一般に「大化」に始まった(実際にはもっと起源は古いのだが・・・)日本独自の元号が連綿と現代迄続いていますが、コリアでは支那の元号を使わなくてはなりませんでした。と同時に、政治・文化全般においても、支那の「国教」とも言える儒教思想を規範としなくてはなりませんでした。更に、朝貢制度によってコリアは支那に定期的に使節団を派遣、支那皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢ぎ物を献上しなくてはなりませんでした。こう言った事が数百年も続くと恐ろしいもので、いつしか「屈辱的」共言える朝貢制度に何らの疑問も持たなくなり、自らを「小中華」と号し、「本家」支那以上の「中華主義」に徹したのです。そして、支那(明王朝)が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の「中華」が死滅すると、「中華主義の本家(明王朝)が滅んだ以上、中華主義を厳格に守るのは我々しかいない!!」と言う変な使命感を抱き、ますます「小中華」に徹してしまったのです。そして、時代は激動の19世紀を迎えたのです。

米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアに迄広がって来たのです。まず、その標的となったのは東アジアの「超大国」清朝でした。阿片戦争(1840-1842)において清朝がイギリスに敗れた事により、「眠れる獅子」がその実、「張り子の虎」である事が白日の下に晒(さら)されてしまったのです。この事件が契機(衝撃)となり、日本は幕末・明治維新と言う難産を経て、近代国家への離陸を果たす事となったのですが、清朝は相も変わらず鈍重な「眠り獅子」を決め込み、その「属国」である李氏朝鮮(以下、「李朝」と略)も時代遅れな「小中華」に浸ったままだったのです。

代国家へ変貌を遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止する為、隣国である李朝に「開国維新」を迫りました。つまり、日本と李朝が連携して一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐しようと考えたのです。しかし、「小中華」に腰からどっぷりと浸かり、両班(ヤンバン:コリアにおける特権階級貴族)による政治腐敗の極致にあった当時の李朝は、世界情勢 ── 東アジアの植民地化の波が目の前に迫っている事が理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。これによって日本は「対話」から「砲艦」(軍事的圧力)による問題解決 ── いわゆる「征韓論」へと方針を転換、明治8(1875)年の江華島(カンファド)事件を契機に、翌明治9(1876)年、日朝修好条規を締結し、李朝を「開国」させたのです。

朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした「独立国」として承認しました。よくコリア人は、「日帝(日本帝国主義)は朝鮮の独立を奪い、挙げ句の果てには韓国併合(日韓併合)と言う暴挙に出た」と声高に主張します。しかし、当時、清朝李朝に対する「宗属関係」(宗主国と属国の関係)を主張し、欧米列強も李朝を「独立国」として認めず、清朝の「属国」・「属領」として認知していました。そんな中、日本だけが唯一、李朝を「独立国」として承認したのです。そんな気持ちを知ってか知らずか、李朝は相も変わらず清朝を「宗主国」として仰いだのです。その後、日本は朝鮮半島政策を巡って、「宗主権」を主張する清朝と対立、明治27(1894)年、遂に日清戦争へと発展したのです。結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝は遂に李朝に対する「宗主権」を放棄、明治30(1897)年、李朝は国号(国名)を「大韓帝国」、国王を「皇帝」と改称し、遂に「独立」を達成したのです。言い換えれば、日清戦争における日本の勝利が無ければ、李朝は「独立国」となれなかった(裏を返せば、「属国」のまま)訳で、コリア人はその事実を直視すべきだと思うのです。

李氏朝鮮(以後、李朝と略)の時代遅れの「小中華主義」に触れましたが、問題は更に根深かったのです。コリアは新羅から高麗を経て李朝末期に至る迄、なんと日本の平安時代よろしく両班(ヤンバン)による貴族政治が連綿と続いてきました。このコリア版貴族「両班」ですが、元々は「武班」と「文班」を総称して「両班」と言っていたのですが、「武班」が蔑まれた事も手伝って、「文班」のみをさして「両班」と呼ぶようになりました。現代風に言えば、軍人の地位が低下し、官僚の地位が向上したと言う事になるのでしょうが、これがコリアの近代化を遅らせる大きな遠因となったのです。

 

班による貴族政治体制は、コリアに封建時代 ── 日本で言えば、戦国時代を招きませんでした。日本や支那の場合にも言えますが、戦国時代は戦乱に明け暮れると言うマイナス面も確かにありますが、それ以上に地方の独自性が顕著に発達すると言うプラス面もあります。しかし、コリアにはとうとう封建時代は訪れませんでした。その結果、恐ろしい程の強固な中央集権体制が完成してしまったのです。現代日本にも言える事ですが、中央集権体制は確かに国土を一元的に管理するのには非常に効率的な政治システムです。しかしそれが長く続くと、弊害として汚職・政治の硬直化等を招くのも確かです。そうです。李朝も末期になると、両班による中央集権体制の弊害がこれでもかと言わんばかりに顕著になっていったのです。

 

班政治の悪弊。具体的に挙げると、日本では江戸時代に東海道等に代表される街道(現代の国道に相当)が整備されたのに対して、李朝では末期に至る迄、「道」(街道)と言えるものは遂に整備されませんでした。あったのは「径」(こみち:畦道のような細い道)だけです。こんな具合ですから、物資はおろか隣同士の村でさえ、人的な交流はほとんど皆無でした。又、徴税システムが完全に崩壊していました。中央(国王)に納められる筈の税金(及び物品等)のほとんどが途中で消えてしまっていたのです。つまり、中継ぎの役人の手を経る毎に次々と横領されていき、中央に着く時にはそのほとんどが無くなっていたのです。更に、当時の国民のほとんどを占めた農民は、制度化されている税金以外に、当地の役人達が勝手に設ける「私税」をも無理矢理徴収され、現在の北朝鮮よろしく慢性的な食糧不足の中、正に「この世の地獄」を生きていたのです。そこへ現れたのが、明治維新で一足先に近代化の道を歩みだしていた日本の「黒船」だったのです。(詳しくは前回のコラム参照)

 

華島事件(1875年)日朝修好条規(1876年)を経て新たに始まった日朝関係の中で、腐敗しきった両班を横目に、欧米列強のアジア進出と李朝の現状を直視する若者達が現れたのです。彼ら中堅青年官僚達 ── いわゆる「開化派」(「独立党」共呼ばれ、1874年頃結成)は、日夜権力闘争に明け暮れ、自国(李朝)が置かれている現状を省みない両班支配体制と、荒廃しきった国土を憂え、更に、いずれは列強の植民地になるだろうと言う危機感の中、その活路を新興国・日本に求めたのです。

 

「開化派」は、国王・高宗の許可を得て度々日本を訪れました。そして、日本に着いた彼らが目の当たりにしたものは、今迄、「中華」である支那や「小中華」であるコリアよりも「格下」であるとして、侮蔑していた日本の驚くべき発展ぶりでした。そこには、李朝には無いありとあらゆるものがあったのです。たかだか十年前は髷(まげ)を結い、刀を差していた日本人が、今ではアジア一の近代国家へと変貌を遂げている・・・。彼らは日本の現実を目の当たりにした事で、初めて「近代化」の何たるかを知ったのです。そして、彼ら「開化派」は、旧態依然たる「守旧派」が相も変わらず清朝を頼るのに対して、新たなパートナーとして新興国・日本を選んだのです。

 

 朝政府内での開化・守旧両派の抗争は次第に激しくなっていきました。守旧派は清朝の「属国」としての立場を堅持するとして、清朝より派遣されているメルレンドルフ等の駐箚官に国政全般の監督を委ね、益々、清朝への依存を深めていきました。一方、開化派は金玉均(キム・オクキュン 写真)をリーダーに、福沢諭吉・井上馨・大隈重信・渋沢栄一・大倉喜八郎・榎本武揚・副島種臣・内田良平等、日本政財界のキーマン達と親交を深め、日本の支援によって李朝の政治体制を変革する ── 李朝版「明治維新」を断行しようとしたのです。

 

1884(明治17)年12月4日(甲申10月17日)夕刻、高宗の内諾と、日本の軍事支援を受けた金玉均率いる「開化派」は遂に決起しました。世に「甲申(カプシン)政変」と呼ばれるクーデターです。彼ら「開化派」が目指したのは、日本同様に国王を中心に戴く近代立憲君主国家でした。その為、守旧派による国勢専横と、清朝の政治軍事全般に渡る強圧的な干渉に強い不満を持っていた高宗は「開化派」に大きな期待を持っていました。電撃的に断行されたクーデターは日本の2.26事件とは違い、「玉」である国王を手中にしていました。その点、「開化派」にとっては非常に有利だったと言えます。しかし、運命は皮肉なものです。高宗の后である閔妃(明成皇后)等の邪魔、高宗の心変わり(弱気)、そして、最も恐れていた清軍の出動によって、事態は一気に流動化したのです。

 

「開化派」を支援していた日本でしたが、いざ、クーデターが断行されると二の足を踏みました。その最大の誤算は清仏戦争(清朝と仏印=ベトナムとの戦争)の決着でした。「開化派」・日本政府双方共、清仏戦争の継続を望んでいました。清仏戦争さえ続いていれば、いかに清軍とて南北(ベトナムと朝鮮半島)双方に派兵はしないだろうと踏んでいたからです。しかし、清仏戦争の決着によて、清朝はクーデターの漢城(ソウル)に軍を出動させたのです。クーデターには日本軍も開化派兵士として加わっていました。その日本軍と清軍が王宮を舞台に対峙してしまったのです。清朝との前面武力衝突を何としても回避したい日本は、ここでクーデターからの「撤退」をしてしまったのです。日清戦争(1894年)を遡る事十年。日本は、依然腐ってもなおアジアの「超大国」として君臨する清朝との全面戦争はやはり避けたかったのです。富国強兵に邁進しているとは言え、未だ近代化の途上にあった日本にとっては、致し方ない選択だったと言えます。12月7日、「開化派」による新政府は崩壊、親清・事大主義者(守旧派)による臨時政府が樹立され、「維新」は僅か3日で幕を閉じたのです。

 

うして、コリア版「明治維新」は失敗に終わりました。その結果、李朝は今迄以上に清朝の干渉を受ける事となり、「開化派」が目指した「自主独立」の夢は遂に潰(つい)え去ったのです。その後、コリアは日本・清朝・ロシア三国の係争地となり、日清戦争(1894)・日露戦争(1904~1905)を経て、1910(明治43)年、遂に「日韓併合」へと至るのです。

 

一方、クーデター失敗後、日本に亡命していた「開化派」のリーダー・金玉均は、清朝の北洋大臣・李鴻章(「甲申政変」後の朝鮮半島管理監督最高責任者。後に日清戦争講話交渉時、清国全権)との対話を求めていました。1890(明治23)年、彼は李鴻章の養子で駐日公使として日本に赴任した李経方を通じて、「日本・朝鮮清朝三国の連携を以て、南下政策を進めるロシアと、アジアを蚕食する欧米列強勢力に対抗すべきだ」との持論を主張しています。国を逐われて尚、祖国の将来を憂えた「愛国の士」金玉均でしたが、「運命の女神」は彼に過酷な運命を課したのです。クーデターの恨みが消えぬ「守旧派」は、彼を日本官憲の影響が及ばない上海に誘い出し、1894(明治27)年3月28日、刺客・洪鐘宇(ホン・ジョンウ)をして暗殺、翌4月、屍体を斬り刻んだ上、「謀反大逆不道の罪人玉均、当日楊花津頭にて時を待たず凌遅の斬に処す」と書いた木札を掛けて、漢城市内に晒(さら)したのです。金玉均、享年43歳。誰よりも国を愛し、誰よりも国を憂えた志士の、それはあまりにも早過ぎる死でした。

 

余談(つれづれ)

 

玉均に対する屍体凌遅刑が執行された翌5月、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。それを契機に日清両国が朝鮮半島に派兵 ── 日清戦争へと発展したのです。もし、李朝が「開化派」を受け入れ、自力で維新近代化の道を歩んでいたなら ── 金玉均が「首相」として政治改革を主導していたなら ── コリアはもっと早く清朝から「独立」した事でしょう。ひょっとしたら、朝鮮半島を舞台にした日清戦争も起きなかった事でしょう。いや、コリアが日本に伍す近代国家になっていたら、「日韓併合」もなかった事でしょう。そう言う意味では、コリアは自らの手で自らの首を絞めたとも言えます。

 

 

リアは、伝説の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)時代から日韓併合に至る長い歴史の中で、二人の「皇帝」を輩出しました。李氏朝鮮 改め 大韓帝国の高宗(第26代 徳寿宮李太王:在位 1863-1907)・純宗(第27代 昌徳宮李王:在位 1907-1910)父子です。しかし、この二人の「皇帝」も、コリア人の憎むべき存在 ── 「日帝」(日本帝国主義)李朝を「独立」させなかったとしたら、この世に存在し得なかった訳で・・・「歴史」とは、何とも皮肉なものです

 

 

参考文献

 

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • 歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

.”2605年8月17日” インドネシア独立秘話

投稿日: 2011年10月6日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

ンドネシアのムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔(モナス)。この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。「第一の神器」は、スカルノ(初代大統領;左写真の向かって右側)とハッタ(初代副大統領;左写真の向かって左側)がサインした独立宣言書(下写真)なのですが、ここに記された日付は「05年8月17日」。インドネシアが独立を宣言したのは西暦1945年。なのに、日付に記された年は「05」年。実は、この「05」年は、当時、「昭和」と共に日本で使われていた「皇紀」(神武天皇の即位した紀元前660年を元年とする)で、「2605」年が略されたものなのです。さて皆さん、なぜ、スカルノ等はインドネシア独立宣言書に日本独自の紀年法である「皇紀」で年月日を記載したのでしょうか? そこには、インドネシアの独立に深く関わった「日本」の存在があったのです。と言う訳で、今回はインドネシア独立と日本との関係について触れてみたいと思います。

インドネシア独立宣言書 ず最初に、日本とインドネシアの「出会い」から書きましょう。よく「大東亜戦争」(太平洋戦争)と言うと、日本が米英(及び連合国)に対して宣戦布告した事になっていますが、こと、オランダに関しては、逆にオランダから日本に宣戦布告してきたのです。当時、オランダもアジアに植民地を持っていました。「オランダ領東インド」(通称、「蘭印」)-インドネシアの前身です。日本の初戦における電撃的な勝利に危機感を感じたオランダは、「大東亜共栄圏」構想-アジア解放を「錦の御旗」に掲げて蘭印へ進軍して来るであろう日本軍の機先を制する目的で、先手を打って日本に宣戦布告してきたのです。これに対して、日本軍は昭和17(1942)年3月1日、今村均(ひとし)中将(下写真)率いる「帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍」(通称「治(おさむ)部隊」)、2個師団総勢55,000人を擁して、ジャワに敵前上陸し、インドネシアへの第一歩を踏んだのです。さて、ジャワに上陸した「治部隊」ですが、ジャワに伝わる一つの伝説「ジョヨボヨの予言」(北方から小柄な黄色人種がやって来て、自分達を解放してくれる。しかし、ジャゴンの花が咲く頃には帰ってゆく・・・)が奏効して、親日一色に染まったジャワ島民の支持もあり、「治部隊」の2倍の兵力を擁していたオランダ軍(蘭印連合軍)を、上陸後、僅か9日にして降伏させたのです。

て、ジャワを占領した日本軍はこの地で一体何をしたのでしょうか? 第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。

  1. 日本人とインドネシア人は同祖同族である
  2. 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
  3. 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

今村均 当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。更に、ジャワ軍政府の施政も住民の支持を得ました。例えば、

  1. 農業改良指導
  2. 小学校の建設と、児童教育の奨励
  3. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
  4. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
  5. 5人以上の集会の自由
  6. 多方面でのインドネシア人登用
  7. インドネシア民族運動の容認
  8. インドネシア人の政治参与を容認
  9. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
  10. 各州・特別市に「参議会」を設置
  11. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
  12. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

等ですが、これらは住民にとって、どう見ても、独立への「ステップ」としか映りませんでした。そして結果的に、ジャワ軍政時代にインドネシア独立の「段取り」は全て整えられたのです。

方、インドネシア人にとって「救世主」と映った今村司令官ですが、大本営との意見対立(ジャワ軍政の施政方針は多分に今村司令官の独断であった)で、在任僅か10ヶ月でジャワ軍司令官を解任、終戦の際に戦犯としてバタビアのチビナン監獄に収監されました。そして、今村将軍(終戦時、陸軍大将)も「死刑」の危機にあったのです(部下の何人かは既に処刑されていた)。この時、映画さながらの「ドラマ」があったのです。なんと、インドネシア独立の父・スカルノ等独立運動指導者が、死刑寸前に今村将軍を「奪還」しようとしたのです。結果的に、今村将軍は死刑執行寸前に釈放され、この奪還作戦は幻に終わったのですが、さて皆さん、ここまで書いた所で、今回のテーマに戻ろうと思います。そうです。なぜ、インドネシアの独立宣言書に「皇紀」が採用されたのか? それは、大本営の命令に反して、独断でジャワ軍政を進めた今村将軍と、独立戦争の際、独立義勇軍(インドネシア国軍の前身)に身を投じた2,000人もの日本兵(彼らの多くは復員せず独立戦争に参加。独立後もインドネシアに残った)に対してはらわれた最大の「敬意」ではなかったでしょうか。

ハルト大統領は在職時に、インドネシアの体制を「家族主義」と称しました。勿論、これには、スハルト体制下、一族及び子飼いの側近が政治・軍事・経済の枢要を占めた事実を正当化する意味もあったでしょう。しかし、その根底にあったものは、ジャワ軍政当初、今村司令官が布告第1号で唱えた「同一家族・同胞主義」ではなかったでしょうか? オランダによる植民地支配から解放し、独立建国に至るレールを敷いた今村司令官によるジャワ軍政。それは、今日に至るまで、インドネシアの根底に深く根を下ろしている様に思えて仕方ありません。

参考文献

  • アジアに生きる大東亜戦争(ASEANセンター編 展転社 1988)