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悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人

投稿日: 2015年4月8日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人

2015年4月8日 13:29

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(FBF神さまよりシェア)

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●悲劇の知日家 朴鉄柱氏 韓国が抹殺した韓国人(動画)

https://www.youtube.com/watch?v=hFe2xkpupBo

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以下文字おこし

(大正十一年(一九二二)、釜山生まれ 平成二年一月逝去・六十八歳、

 昭和二十九年五月「日本文化研究所」を設立)

大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。下関の住吉神社に奉職。戦後韓国に帰国。

李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられる。

(日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」に引っ掛かり追放)

朝鮮動乱を経て、昭和29年5月に「日本文化研究所」を設立。

研究主題は
一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究

同じころの我が国が、敗戦により自国文化の否定、罵倒する言論がまかり通っていたのとは対照的です。

その後「日本と韓国」(韓国と日本ではない)という著書を南朝鮮で出版しましたが、

「反共法」に引っ掛かり、朴氏は裁判にかけられ、三年半の刑が言い渡されました。

著書は全て没収・焼却されました。

この著書は三分の二が日本への言及であり、日韓の恒久的安定が説かれていました。

出獄後KCIAからの査察を受け、何回か投獄の憂目を見ましたが、それでも初一念を曲げず「日本文化研究所」は名称を「韓日文化研究協会」と改め、細々と続けていました。資金なく、生活は文字通り赤貧洗うがごとき状態でした。

名越二荒之助氏が昭和四十二年に学生達と訪韓し「韓日文化研究協会」を尋ねた時に荒廃して目も当てられぬくらいの研究協会の建物を指さしながら「これで松下村塾なみになりました」とカラカラと笑いました。

名越二荒之助「朴鉄柱大人を偲ぶ」より

朴氏は吉田松蔭のような生き方をもって、日韓永遠の架け橋たらんとしていたのです。

私たちが来るというので、朴氏の弟子数人も集まっていました。

朴先生と弟子たちの目は爛々と輝き、底知れぬ迫力を感じました。

対座していると、反日砂漠の中でオアシスに出会ったような安らぎを覚えました。
朴会長は我々の訪問を待ちかねたように、語り始めました。

それは堰を切った急流のように溢れ出て、とどまることを知らず、三時間がアッという間に過ぎました。

「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。

北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。

日本はすばらしい。

万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。

日本固有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。

〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。

それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。

暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」

「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。

ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。

韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。


日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。

それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。


私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。

それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。

日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」

「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。

そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落していた。

お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではないか。

そのために日本は自信をとり戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい。」

「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。

平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。

それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。

最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。

〝事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし〟

というのが、 開戦時の心境であった。

それは日本の武士道の発露であった。

日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。

それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。

日露戦争と大東亜戦争-この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。

この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを始めとする植民地を持った欧米諸国であった。

彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。

戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決る、というのはクラウゼウィツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。

日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、〝聖なる戦争〟であった。

ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。

二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし 彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」

その後、朴氏は肺がんに犯された体に鞭打って、亡くなる一年前の平成元年一月に先帝陛下の御大喪の際に来日したそうで、朴氏から兄と慕われた中村武彦氏の文章より朴氏のお人柄を偲べます。

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<平成元年一月、先帝陛下の崩御の直後に重い足を引きずって彼は東京にやってきた。先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて、長い間頭を上げなかった。

御大喪の日には、雨の中を早朝から皇居前の堵列(とれつ)に加わり、お見送り申し上げた。名も無き一韓国人が、瀕死の身を以て氷雨に濡れながら、泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しい真心を、御神霊は必ずや御嘉納になったであろう。>

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この様な朝鮮人がいた事を決して忘れてはならないが、今の朝鮮は日本統治時代が良かったと言ったご老人が殴り殺され、その行為を賞賛する奴までいるような国となっています。

以上。

☆—— —— —— —— —— ——☆

【朴鉄柱氏の講演から】

 今いちいち申し上げる暇はありませんが、日本は善意はあっても悪意というものはなかったと云える。さっきも申しましたように日韓併合だって悪意じゃない。これも放っておけば、日清戦争でやっと独立権を回復してやったのに、又ロシアにやられてしまう、これじゃいつまで経ってもだめだ、それじゃ自分たちがやってやらなきゃだめだということなんで、私は善意に解釈すべきで、決して悪いことじゃないと思います。
 私一つだけ強調したいのは、昨今の教科書問題とかで日本の侵略だとか何かと言っていますが、これは欧米諸国のようなものではありません。欧米のアジア侵略こそは筆舌に尽し難いものがあったわけです。皆さんもよくご存知だからいちいち申しませんが、ジャワ、インド、ボルネオ、すべて席巻して独立国と云えるのはシャムと日本しかなかった。中国だってアヘン戦争でズタズタにやられている。事実はこういうことなんです。

ただ問題なのは今日の日本と韓国はどうしたらいいかということです。これは大変な問題です。
 先づ日本のことを申してすみませんが、日本は歴史教育が全く欠けております。なぜ歴史を教えないかというと、GHQの政策をそのまま受け継いでいるからです。これじゃいけない。教科書にその国の価値観持つのは当然です。するとね、韓国騒ぎ、中国騒ぎするから取りやめる、これじゃいつまで経っても本当の歴史は成り立たない。このことを皆様真剣に考えて頂きたい。
 と申しますのは、何度も申すようですが、日本は決して悪意でやって来たんじゃないということです。欧米の侵略戦争はもっとひどかった。それに比べれば何ということはありません。
 まあ、大東亜共栄圏ということばはあまり好きじゃなかったんですけれど、要は弱者を保護し解放するということが日本本来の思想だったんです。これは極めて正しいことです。そこが歴史をまともに教えないから、皆様がもう卑屈になったという経緯がないでもありません。ですから、そこの所を皆様方が若い人の教育に熱心に当って頂きたいということを願いする次第です。

 それから韓国も然りですが、教科書問題を始めいろんな問題で日本をたたくのは、これ援助してくれとか、お金をくれとか、借款くれとか、経済的魂胆が必ずあるわけですよ。だから、煩わしい、うるさいからやってしまえということではアジア問題、日韓問題はいつまで経っても同じなんです。そこの所をよく考えて、日本の政治家は勿論ですが、皆さんの周辺からも正しい歴史教育が出来るようにして頂きたいと思うんです。
 本当のアジア問題の解決には、自主性が第一。自主的な教育、自主的な憲法に基ずくことです。相手が聴かなければ説得すること、相手がすねていたら引張って来てでもやるという気概を持たないとダメだと思います。煩わしいから金やってしまえばそれまでだというんでは、いつまで経っても解決しないと思うんです。
 韓国でも中国でも過去の歴史にこだわって好きなこと云わせていたらキリがないですよ。よく南京事件のことを持ち出しますが、その前の済南事件などは日本の人がたくさんやられているんですから。
 私、大変僭越なことを申し上げましたが、これがこれからの日本の進み方の基本になると思います。これが出来ない限り、お金の援助をいくらやってもキリがないんです。

 戦前の日本の国家的行動を「侵略」の一語で片づけるような歴史観は、本当の事実を全く無視しています。
 中国革命の父孫文は当初滅清興漢をスローガンとして戦っており、玄洋社の頭山先生など日本の民間志士とのつながりが深かったんですね。偶々日露戦争が起きて日本海海戦で日本が大勝した時、孫文はロンドンに亡命していましてイギリスの高官と話をしたんですが、日英同盟のさ中というのにその某高官は、白人が有色人種に負けたのが悲しいというんです。というのは、イギリスとしてはロシアの南進政策を阻止する防波堤とするため日本と利害関係で結ばれていたに過ぎないのです。しかし最早日本の防波堤としての役は終ったということで、白人が負けたことが悲しいというんですね。
 そこで孫文は一念発起しまして日本と提携しなくちゃいけないというので帰国して来るんです。そして中東アジアの港々に船が泊まると、原地人達からあんたは日本人かと云われ、理由を聴くと有色人種が白人に勝ったのが嬉しいと云って喜んでいるんです。それで日本に来た時、大アジア主義という演税をしたんです。そしてこの時、満洲は日本に与えてもよいと云っているんですね。というのは満洲は清国を興した女真族の故郷であって、孫文としては清を中国本土から追い払って漢民族の国を建てようとしているわけですから、満洲を中国の一部とは考えておらず、寧ろ日本が投資してアジア防衛の根拠地にしてもらった方がよいと考えたわけです。
 だからこの方向に沿って日本の国家権力も動かされてきたわけで、日本は悪いことをしてないんですよ。少なくとも政府はどうあれ、在野勢力というのは本当にアジア諸民族の味方になって連携を保ってやって来ている。先程も云ったように黒龍会が東学党を支援したり、玄洋社が辛亥革命やフィリピン独立運動を支援したり……。
 そうしてみると、明治維新のパワーというのは、政権の座に就いた側になくて、在野の人達に大きな維新精神が受け継がれてアジア問題を常に真正面から捉えて来てたんですね。
 私も頭山先生に戦前一度だけお会いしましたが、君は金玉均タイプだと云われました。金玉均というのは、御存知だとおもいますが、福沢先生の門下でもありまして李氏朝鮮末期独立党を作って親日政府を構成し日本と協力して韓国を立ち直らせて東亜の安定を保ちたいと主張したんです。それを時の日本政府は相手にしなかったんですが、頭山先生らは支援し続けたわけです。これは非常に価値あることだと思います。こうした在野の努力を除いて近代日本の歴史
もあり得ないと思います。 だって当時日本政府の高官は鹿鳴館に象徴されるように欧米模倣になり切って何もなかった状態です。伊藤(博文)
さんなんかも、料亭に行くと、頭山さんが来てないか、と聴いて来ていない、というと入ったというんです。来てるというと逃げちゃうんですよ。それくらい時の首相も在野勢力を恐れていた。後の首相になった犬養さんなどもその頃は玄洋社の志士だったんです。
 今日でも皆さん達のような民間の人こそが真の日本の歴史に立って尽力して頂ければいつか必ずアジア諸国との深い理解と友好が成り立つんじゃないかと思います。

 政府に任せたらダメなんです。私のよく知っている立派な人でも政府と結託すると必ず悪く染まるんですよ。
 私自身も朴正熙の時代から共和党に来てくれと云われたことがあるんですが、私は日本文化のこと以外は政治も知らないし、但し「古事記」なら講義しましょうと云って断りました。それが却って向うの心証を害してしまいまして弾圧され
たんです。「日韓間題の将来」という本も書いたんですが、反共法に引っかかって刑務所に入ったんですよ。こういうよう政治家に任せると目先に追われてダメなんです。在野の方が結束して勉強し、修行教化していけばやがて実現しま
す。これが基本だと思います。
 但し日本はゆくゆくは憲法改正しなくてはいけませんね。私どもの情報では韓国政府もおいおいよくなりつつあるらしい。というのは韓国野党に私友人がいるんですが、結構立派な人がいますので、次期政権は野党に帰ってくると思うん
です。すると私も遅ればせながら命ある限り協力してやっていきたいと思います。
 今まではよくないことばかりでしたが、日韓の文化交流の根は非常に深いんですから、これを民間の力で充分掘り下げていく研究機関を作っていけば必ず道が開けると思います。

 私、冒頭にも申しましたように「私と日本」という本を書いておりまして、個人的内容かと思うかも知れませんが、これを書き通しておきたいと思うのは、韓国の若い人の将来のためなんです。私が先駆者とは申しませんが、少なからずそ
うした気概で書いていますから、日本文化の理解に一生捧げ尽くしたいということは誰か分かってくれるんじゃないかと思うんです。
 貴重な時間を私ごとき者のお話をお聴き頂き、有り難く存じました。今後とも御指導賜り相携えて仕事をしていきたいと思います。

以上です。

image朴鉄柱氏

日本の中にある三つのミステリー・ゾーン

投稿日: 2015年4月3日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

もしかしたらミステリー・ゾーンと言ったほうがいいかもしれない場所を、

 一つ目は「田代峠」宮城県と山形県の県境にあります。
ここはUFOの地下基地があるとも言われており、1968年1月17日に
当地で墜落死した航空自衛隊松島基地所属のF86セイバー戦闘機のパイロット、
紙西一等空尉の慰霊碑があります。
 この墜落事故についてもUFO関連で語られることもあるようですが、それらの元ネタになっているのが、高橋コウという女性の手記に書かれた内容で、昭和50年に『婦人公論』誌に掲載された実話とされているようです。

 並木伸一郎氏の話を引用しておきます。
「山形県北東部、宮城県との県境にある”田代峠”周辺は、UFOの目撃をはじめ不可解な航空機事故が多発、加えて旧日本軍の秘密大洞窟までもが存在するという、東北最大の”超怪奇ゾーン”である。
筆者はこの秘密洞窟探しを、98年来ずっと続けている。
きっかけは、高橋邦泰さん(故人)の「山菜をとりに田代峠の奥まで侵入した際、
緑色のガスに包まれて大洞窟に導かれた。磁石がグルグル回り、その内壁には雑多な金属が張りつき、中に”金星発動機五十二型昭和十九年三菱航空機株式会社”と刻まれたプレートがあった」という摩訶不思議な体験を知ったからだ。
調査の過程で、このプレートにリンクする情報を得た。
太平洋戦争末期、日本軍はナチス・ドイツのメッサーシュミツトを模した、国産初のロケット戦闘機「秋水」を三菱重工によって開発させた。
秋水のエンジンは、日本飛行機の山形工場で作られていた。
完成5機、1号機はテスト飛行で大破。
戦後、米軍によって完成3機が没収された。注目すべきは残る1機の行方だ。
この1機が今なお日本のどこかに秘匿されているのだ。
かつて田代峠に日本軍が駐屯しており、終戦間際、地下の秘密工場で戦闘機を製造していたという情報がある。
事実なら、三菱の金属プレートが張り付けられていた大洞窟は、旧日本軍の秘密工場の入り口だった可能性が高い。
その先には広大な地下工場があり、密かに運ばれた幻のロケット戦闘機「秋水」
が秘匿されているとしたら、これはまさしく日本のX-ファイルである」(作家 並木伸一郎)
元話はこれです。 
田代峠の怪
高橋邦泰さんというのは話に出てくる高橋コウさんの息子さんでしょうか。

https://youtu.be/NZ8NAKdkm6A

その二は尾瀬湿原内にある「岩塔盆地」です。
これは不可思議話の大先達である西丸震哉氏が命名した地名ですが、正式名称ではないようです。
「岩塔ヶ原」と言われることもあります。

あるとき西丸氏が航空写真を機械で立体視していたら、湿原の中に尖ったドーム状の地形があり、人工物のようにも見える。
仲間をさそって実際に行ってみたら、岩塔自体は小山に木が重なって生えているものだったが、そこで奇妙な体験をした、という内容が『山だ原始人だ幽霊だ』だったか、(違ったらごめんなさい)に書かれていたと思います。この地は、地下の大神殿がある、ドッペルゲンガーに遭える、生き残ったサンカの住処であるというような噂があり、立ち入り禁止区域という話もありますが、いろんな人がブログに現地の写真などを載せていますね。 
 西丸オヤビン(敬愛を込めてそう呼ばれる)の話を引用してみます。
「何度か山で見た男の幽霊のなかで、本州の最奥、尾瀬ヶ原北方の山中、私が岩塔盆地と名付けた湿原地帯で出会った例を紹介しておこう。
 私のほかに五人ほどの仲間で、テントを設営して泊まり込んでいたある日の夕方、まだ明るい時刻に、山の奥の側から一人の男が近づいてきた。
こんな辺鄙なところに人がやってくるとはめずらしいなと思って見ていた。
前にそのあたりのことを山の雑誌に書いたこともあるので、それを見てやってきたのかな、と思った。
 だんだん近づいて、水たまりの水をはねながらやってくる。
彼は、私がはいていたのよりも立派な登山靴をはいていた。
私たちはテントを二はり張って、ちょうど夕飯の炊事の用意か何かをしていたときで、みんな手を休めてその男を見ていた。かれは、十数メートルほどの近くにまで来ていながら、われわれの話し声にも知らん顔、全然こちらを見むきもせずに
そのままスーとわれわれの横を通りすぎて行く。 私は前に穂高岳の下、横尾谷の岩小屋で、完全装備をした若い男の幽霊に同じような無視のされ方を受けているので、また出たなと思ってすぐに男のあとを追いかけた。
が、ちょうど原っぱの途中に張り出している林の角で一瞬のうちに姿を見失った。
 私も、すぐにその場所へ行って探したが、その向こうの原っぱにも姿は見えない。原っぱの中をあちこち駆けまわり、「オーイ」と呼んでみたけれども、何の反応もない。夕暮れどきだから、われわれの設営した場所をはずすと、
そのあたりには泊まり場がないはずなのだ。もっとも、ヤブの中であろうと何であろうと、よほど自信のある人なら、どこでも寝てしまえるかもしれないが」
 ここに到達するにはそんなに山登りはないけどかなり歩きます。
昼の印象は風光明媚そのものという感じですが、夜になると雰囲気が一変します。地下神殿?の入り口は、そうとう探し回りましたが、自分には見つけられませんでした。
*これは紹介していいかどうか迷ったのですが、種明かし編がありました。
場所は別のようですが。
私は幽霊にされてたようです

https://youtu.be/plidCt4lJ04

さて三つ目は、

前二つほど有名ではないんですが「田和山遺跡」(島根県松江市)
というところです。
『不思議ナックルズ』で紹介されたので少しずつメジャーになってきましたが、前二つのゾーンのように伝説化していくでしょうか。
 市立病院の移転にともない、新用地候補であった小高い丘から、弥生時代中期頃と思われる環濠遺跡が出土しました。環濠というのは基本的には堀ですが、木柵や防堤などをともなうこともある境界です。
環濠は丘の頂を囲むように三重に掘られていましたが、それに守られた頂には人の住む住居はなかったのです。
この当時の一般住居は竪穴式ですが、柱跡からの推測で、そこには神殿状の高床式の建物があったことがわかっています。
 この遺跡を巡って、保存派と病院建設強硬派とが対立し裁判にまで発展しました。

これはよくあることなんですが、他の例と異なるのは、当時の反対派の市長を含め、反対派の市議3人、そして開発が始まれば工事を請け負うであろう建築会社の会長、計5人がわずか2か月の間に相次いで急死したのです。
みな高齢ではありましたが、それぞれ現役で活躍されていた方々です。
 このことから地元では祟りの存在がささやかれるようになりました。裁判のほうは市側が遺跡保存に方針を転換したこともあり、保存が決定し国指定史跡となりました。この遺跡の特異な点は、上記したように他に例を見ない厳重な環濠が守っていたのは、出雲大社の原型を思わせるような神殿状建物であったことです。人の住む住居は環濠の外から見つかりました。
ここにはいったい何があったのでしょうか。

 環濠内からは三千個をこえる石つぶてや銅剣型石剣などが出土しましたが、
石の剣は実際の戦闘に使うには重く、またすぐ折れてしまうために祭祀用のものではないかと考えられています。これらから、ここは古代の儀式的な模擬戦闘の場であったとか、神殿に銅鐸を置いて守っていたとか、古代の貴人のための産屋であった(そこで出産をした)などの様々な説が出されていますが、確定はしていません。

 最後の産屋説は、有名な「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」というスサノオの命が詠んだとされる日本最初の短歌からきています。
「盛んな雲が立つ、湧き出る雲が八重垣を作る。我が妻を籠もらせるために八重垣を作る」というような意味で、妻を籠もらせるとは出産を意味すると解したのです。
 また、地元では「垣をめぐらした山には入ってはいけない。たちまちに死が訪れる」というような伝承があるとナックルズには書かれていました。

https://youtu.be/O00RHdjx4VE

ケントさんの記事をシェアしました。日本語と漢字を廃止した某国 わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない。

投稿日: 2015年3月27日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

【ケント・ギルバート】日本語と漢字を廃止した某国 わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない

2015年03月26日

    ★【ニッポンの新常識】日本語と漢字を廃止した某国 文献を読めないのは悲劇か喜劇か K・ギルバート氏
    2015.03.25
    20141016083744b92_20141119222904e2c
    私はブログとフェイスブックに載せる記事を、原則として日本語と英語の2カ国語で書いている。記事の題材や資料が英語の場合、先に英語で書いてから日本語に翻訳する。この場合はあまり苦労を感じない。
    しかし、参照する資料などが日本語だった場合、先に日本語で記事を書いてから英語に翻訳する場合が多い。このパターンは少々やっかいだ。
    日本語は漢字という1種類の表意文字と、ひらがなとカタカナという2種類の表音文字を組み合わせて表記できる。しかも、「助詞」をうまく使えば、日本語は文の中で語順を入れ替えることすら自由自在だ。
    他方、英語はアルファベットという26文字だけで全てを表現しなければならない。便利な「助詞」は存在せず、倒置法などは限られる。
    ちなみに、日本語の仮名は「五十音」と言われるが、「がざだば」行の濁音、「ぱ」行の半濁音、「ぁ」行と「っゃゅょゎ」という捨て仮名を入れると、ひらがなは76文字。カタカナは「ヴ」も使うから77文字ある。
    加えて、常用漢字は2136字/4388音訓もあり、同じ言葉でも、どの文字種を使うかで微妙に意味を変えられる。
    従って、日本語で文章を書くときの自由度の高さは、英語とは比較にならない。うまい皮肉を日本語で思い付いても、英語で表現しようとすると本当に大変なのだ。
    世界に誇るべき日本語の表現力だが、前回の連載で、君が代の変遷について書く際に、日本の初代文部大臣の森有礼(ありのり)について調べていたら、驚くべき事実を知ってしまった。
    yurei
    森は10代で英国に留学しており、英語が非常に堪能だった。この日英バイリンガルの大先輩は「日本語を廃止して、英語を日本の国語にすべきだ」と考えていた。漢字の複雑さを特に問題視していたようだ。
    確かに、明治初期の漢字は今よりも複雑で数も多かった。話し言葉は口語、書き言葉は漢文という不自由な習慣もあった。西洋に後れた政治や経済、科学などの学習に必要不可欠な英単語は、日本では概念すら存在しないものが多かった。
    例えば、「社会」「存在」「自然」「権利」「自由」「個人」「品性」「人格」「情報」「近代」「美」「恋愛」「芸術」「彼・彼女」などの言葉は、江戸時代の日本にはなかった。明治期の先人が苦労を重ねて生み出したのだ。
    もし、これらの言葉が使えなかったら、日本語の文筆作業は相当もどかしい。だから、当時の森の気持ちも理解できるが、現代から見れば、満41歳で暗殺された森の考えは若気の至りだった。
    ところが、本当に漢字を廃止して、独自の表音文字だけにした国が、日本の近くに存在する。結果、国民の大多数が、わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない。
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    悲劇と呼ぶべきか、喜劇なのか。それが問題だ。
    http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150325/dms1503251140002-n1.htm

桃太郎という物語がありますが,由来が面白い。

投稿日: 2015年3月18日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

桃太郎という物語がありますが、この桃太郎は柿太郎でも栗太郎でもみかん太郎でも無く桃太郎であるのは理油があります。桃は破魔の果物です。その由来は古事記のイザナキの命が黄泉の国のイザナギの姿を見てしまい逃げ逸話から来ています。

その破魔の功績のお礼にイザナキの尊により意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)との名前を頂いています。そして葦原の中国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けるようにお願いされます。

これ以来、桃は破魔の果物となります。桃太郎がみかんでも柿でもリンゴでもなく桃であるのは破魔の果実だからです。

その桃太郎ですが、鬼退治に出かけます。鬼のイメージは二本のツノを頭に生やし、虎柄のパンツを履いているというイメージがありますが、これも理由があります。

鬼門は北西の方向です。12支で見ると丑虎の方向です。鬼門とは丑虎(うしとら)の方向なので、丑のツノを持ち、虎柄のパンツを履く鬼が擬人化されました。

桃太郎は鬼退治に向かいますが、猿、キジ、犬が桃太郎に従います。鬼門に対抗するには裏鬼門の動物の力が必要です。裏鬼門の方角は南西です。12支で方向を見ると申酉(さるとり)の方角です。

従者がキジであり猿であるのは鬼門に対抗する為の裏鬼門の動物だからです。ここで犬はなぜ従者なのかという疑問が生まれます。多くの解説には猿、キジ、犬が裏鬼門であると説明されていますが、犬の方角は北西です。裏鬼門からずれています。

その犬の由来は私は「狛犬」から来ていると思っています。狛犬に相当する仏閣のガーディアンとして飾られる動物はインドでも朝鮮でもインドでも獅子、ライオンでした。ライオンはネコ科、そして12支は東南アジアではうざぎの代わりに猫年がある国もあるように方角は兎=東です。

しかし日本では狛犬とガーディアンは犬です。古代の歴史を見てみると、日本は任那日本府を所領しており、東西に百済、新羅という国が存在しました。

そして百済は王子を日本に人質として出しており、新羅は日本から王を迎えて国を治めていました。そして三韓征伐の時に新羅王は日本の狛犬となりて守護をすると神功皇后に誓約します。

その当時の朝鮮は高麗(こま)と呼ばれており、ヤマトのある都からの方角は北西、戌(いぬ)の方角です。

狛犬とは元々は高麗犬、新羅と百済の事をモチーフにした日本を守護する日本の衛生国家であった古代朝鮮の姿です。

地図で見ても、外敵を迎える門(九州博多)を出て門の外の左右に陣を張り外敵を迎える位置にあり、古代日本の朝廷が衛生国家で属国だった古代南朝鮮の百済と新羅を狛犬として認識していたと考えると地理的にも史実的にも、そして文字の起源的にもすっきりとまとまります。

そして当時の外敵は新羅、百済と高句麗の間に存在した濊族(わいぞく)です。濊族は満州族系民族による高句麗により征服されていくことになります。

正史である隋書には以下の記録が残されています。

新羅も百済も○国(倭国)を大国とみている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も○国を敬仰し、常に使節が往来している。
(○:人偏に「妥」、『隋書』では倭国をこう表記しています。)

魏志倭人伝の書かれた魏書ですが、韓伝、高句麗殿と当時の国々の記録も人口も記録されています;

三国志の時代の各国の戸数が記録には残っています。当時の人口で高句麗は3万戸、1戸あたり5人とすると人口30万人の国です。

日本は20万戸、人口100万人を超える国だと記録されています。そして三韓の地は人口こそ14万戸と多いものの、約70の国に分裂し1万人規模の小国が乱立していた地域であると書かれています。

そして倭国に贈ったのは金印であり朝鮮には銅印しか送られていません。銅印は別名で泥印と呼ばれる印です。この差は人口や国力の差です。

倭国は支那の東にある国々の中でも飛び抜けて人口の多い国でした。この人口の多さが軍事力の差であり国力の差です。

その日本に屈し、日本の狛犬となった百済、新羅の古代の姿が狛犬として神社仏閣の風習として残り、そして昔話の桃太郎に物語に残ったのだろうと思います。

昔話は有史以前の歴史をオブラートする真実を内包している気がします。

神話や建国記述「間違ってない」「感動した」 一宮市教委の注意で削除の中学校長ブログに激励

投稿日: 2015年2月23日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

http://www.sankei.com/life/news/150222/lif1502220014-n1.html

≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫

 2月11日は建国記念日です。そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧になられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がっていないことに気付いたのです。

 仁徳天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。

 税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。

 三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたということです。

 「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」

 そして、一緒におられた皇后に「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。

 皇后はそれを聞いて「陛下は変なことをおっしゃいますね。衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」

 すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったといいます。

 この話は神話であり、作り話であるという説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。

 こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。

 「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰してほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充ててほしい」と述べたのでした。

 それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下の手を握り、「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。

 このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。

 日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。しかし、だからといってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません

古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家であったのです。

 私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。(原文のまま)

日本経済は、世界の良きモデルになる

投稿日: 2015年1月5日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

クルーグマン教授・独白「日本経済は、世界の良きモデルになる」【1】
ノーベル賞経済学者が安倍総理に直訴
PRESIDENT 2014年12月15日号
その発言に各国の政府関係者から市場関係者までが注目する「世界のオピニオンリーダー」。アベノミクス、金融緩和、消費税再増税……プレジデントの独占取材にクルーグマン氏は自宅で答えた。
 私は昨年10月31日付のニューヨーク・タイムズに“Apologizing To Japan”(日本への謝罪)というコラムを書いた。主旨はこうだ。
 日本はバブル崩壊後、1990年代の初頭から20年間スランプを経験した。いわゆる「失われた20年」と呼ばれる時期だ。バブルが崩壊して10年近 く経った98年、私は「復活だあっ!」という論文で日本経済の問題を分析した。そこで「流動性の罠」の説明をした。それは中央銀行が金利をゼロまで下げて も金融政策としては十分ではないという状態だが、FRB(米連邦準備制度理事会)前議長のベン・バーナンキも日本政府に果敢な決断をするように2000年 に論文を発表した。私もバーナンキも日本政府の政策が不十分であると痛烈に批判したが、実は西洋と比較するとまだましであると言いたかった。ある意味では 我々には日本を痛烈に批判する資格はなかったかもしれない。ということで、私は「日本に謝罪する」というコラムを書いた。要するに自分の国や欧州のことを 棚に上げて日本を批判したことに対する謝罪ということだ。
 日本で話題になっているこのコラムは、欧米が日本の失策から学ぶべきことを学ばずに日本よりもひどい失策をしたことに対する反省と皮肉を込めて書い た。日本はかつて「反面教師」であったが、西洋が大失態をしたので、それどころかロール・モデルに見える。アベノミクスが奏功すれば、世界中の国は日本こ そがまさにロール・モデルになることを認めざるをえないだろう。
 私はアベノミクスを支持してきた。それだけに、安倍晋三首相が2015年10月に予定していた消費税率10%への引き上げを先送りする方針を固めた というニュースを耳にして、ほっと胸をなでおろした。日本は消費税増税の第二弾を実行するかどうか、与党内でも真っ二つに分かれている。私は昨年11月6 日、首相官邸で安倍首相に直接進言する機会を与えられ、今はその時期ではないと、延期するように伝えていたからだ。
 私は日本経済に期待してやまない。日本の行方を「金融緩和」「円安」「女性活用」の3点から展望しよう。
 黒田東彦日銀総裁が、サプライズ追加緩和を発表したが、それにはもろ手を挙げて大歓迎である。称賛すべきことだ。今まで日銀や日本政府が実行してき たことは、消費税増税を除いてはすべて歓迎である。実際日銀が実行してきたことは別に斬新なことではなく、何年も前から私を含め、欧米の専門家たちが実行 するように促してきたことである。
 まず、なぜ黒田氏の追加緩和の決断が正しいか説明しよう。日本がデフレ状態から完全に脱していないことは明らかだが、その状態から脱するには「脱出 速度」に達さないといけない。脱出速度というのは元々重力圏からの脱出速度という意味だが、私は比喩的に使っている。今優先すべきことは、脱デフレのため になんでもやることであるが、消費税増税以外の政策はその点で正しい。
 消費税増税第一弾の影響はすでに出ており、予想通り消費に陰りが見えている。どれほど追加緩和を行ったとしても消費税増税はそれに真っ向から反する 策で、それは航空母艦から離陸しようとしている戦闘機がブレーキをかけている状態である。戦闘機が空母から落ちないように射出しなければならないときにブ レーキをかけたのでは、離陸に失敗するのは目に見えている。今の状態では溝にはまって底から体を押し上げて脱出しようとしているときに、力が足りなくなっ てまた底にたたきつけられる懸念があるということだ。アクセルを十分に踏んでいない状態である。サプライズ追加緩和でアクセルをまた踏んだが、消費税増税 第二弾を実施すれば、その推進力は相殺されてしまう。消費税増税の財政上の理由があったとしても、まず戦闘機が空母から離陸して飛行状態になるまで待つべ きである。だから私は安倍首相に増税を延期するようにと自分の意見を述べた。
 今の日本は33年、金本位制が崩壊したときのアメリカにもっとも近いだろう。そのときでさえ、4年後に経済はまた景気後退に陥った。日本は30年代 に同じようなことをしているが、日中戦争で戦わないといけなかったので、大規模の財政支出で助けられた。だから、今日本がやろうとしていることは誰も試し たことがないことである。奏功すれば日本が世界のモデルになると言いたい。
「臆病の罠」に陥っていないか
 黒田氏は実現すべきインフレ率を2%にしているが、実際に2%に達するには目標を4%にしなければならない。この4%という数字は以前から私が繰り 返し主張してきたが、なかなか受け入れてもらえなくて残念である。ここで「timidity trap」(「臆病の罠」、liquidity trap「流動性の罠」にかけている)について説明したい。
 「臆病の罠」というのは原則上正しい考えを持つ政策立案者が実行面で絶えず中途半端な施策に終わり、揚げ句の果ては政治的にも経済的にも期待外れに 終わるというものだ。日本の場合過去の政策と断固として決別し、我々のような欧米の経済学者が15年以上にもわたって、強く促してきた政策をやっと採り入 れた。とはいえ、実際に実行するときには現状が要求しているよりもインフレ目標を低く設定することが「臆病の罠」である。そうすると離昇達成に失敗するリ スクが高くなる。ロケットで言うと発射したものの空中分解してしまう状態になるリスクが高くなるということだ。黒田総裁はインフレが2%になることを予想 しているが、その根拠を示していない。私が言いたいのは、2%という目標が好況を生み出すのに十分ではない可能性があることだ。黒田氏の主張する2%とい う数字は、その基礎となるモデルが何かわからない。
 もしそれが正しくなければ何が起こるかと言うと、インフレ率が1%になるとそれ以上上がらずに、日銀が予想しているレベルには達さないということ だ。その場合政策の信憑性は崩壊する。今重要なことはインフレ率を上げるということを国民に信用させることで、インフレ率が上がれば、実質金利が下がるの でそれが景気拡大を生み出す。今度はそれがさらにインフレ率を上げるという好循環を生み出す。そうなって初めて期待が正当であることが実証されるのであ る。しかし、景気拡大が好況を生み出すのに十分でなければならない。インフレを目標レベルまで押し上げるのに十分な潜在産出量(資本や労働が最大限に利用 された場合に達成できると考えられる長期間維持可能な実質GDPの最高水準)よりも上のレベルで経済が機能しなければならない。確かに量的・質的金融緩和 の効果は出ているが、それでも私は懸念している。需要が弱い状態が続く限り、構造改革をすぐに実行することは難しいからだ。
 次に円安について説明しよう。まず大幅に円安になったことは政策の劇的な成功の一つである。日本のメーカーはアベノミクスが実行される直前、過大評 価された円について泣きわめいていた。そのあと円安になりかなり競争力がついたように見えた。例えば、建設プロジェクトがあって、ブルドーザーを買うとき に円安になる前と比べると今は小松製作所のものを買う可能性が高い。日本のメーカーが特定の商品の製造を日本でやるべきか、あるいは中国でやるべきか考え るときに日本で製造すれば実行計画が立てやすく、プロセスにもアクセスしやすいが、中国では賃金を安く抑えることができる。そういうプラス面とマイナス面 を総合的に見ると今は日本がより魅力的な場所である。日本で製造したほうがより利益が得られるだろう。
 一般的に通貨安は輸出を推進するという有力な証拠が歴史的にあるとすると、一方ではそういう影響は数回の四半期までは結果が見えにくいという経済 データもある。普通10%円安になると10%輸出が伸びるはずだが、円安の影響がもっと出てほしいと私は思っている。賃金が上がる前に物価が上がるという 円安のマイナス面が今出ているが、総合的に見ると円安のマイナス面よりもプラス面のほうが大きい。
 85年にプラザ合意でかなりドル安になったが、それから2年間ほどなぜアメリカ経済はよくならないのかと専門家たちは言い続けた。2年後にはアメリ カの貿易赤字は激減したが、それは通貨の大きな動きがあったときにその影響が出はじめるのに時間がかかるということだ。もう少し時間が経過すると輸出は伸 びると思う。プラザ合意は為替相場の貿易に対する影響において、一種の自然実験と言ってもいい。最終的には理屈通りになったが、タイム・ラグがあった。最 初の半年は何も起こらず、1年半経ってもあまり変化が見られなかった。2、3年してはじめてその影響が見え始めたのである。
 円安のマイナスの影響で物価はすでに上昇しているが、物価だけが上昇するのは当然好ましくない。賃金は年に3、4%上がり、物価は年に2%かそれ以上上がるのがいい。
 日本では今急速な円安のマイナス面が表面化し、物価が上昇しているが、それに対して賃金上昇が追いついていないために、スタグフレーションに陥りつつある。
ポール・クルーグマン
1974年イェール大学卒業。77年マサチューセッツ工科大学で博士号を取得。2000年よりプリンストン大学教授。大統領経済諮問委員会の上級エコノミ スト、世界銀行、EC委員会の経済コンサルタントを歴任。91年にジョン・ベイツ・クラーク賞、08年にノーベル経済学賞を受賞。
http://president.jp/articles/-/14177
http://president.jp/articles/-/14177?page=2
http://president.jp/articles/-/14177?page=3
http://president.jp/articles/-/14177?page=4

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クルーグマン教授・独白「日本経済は、世界の良きモデルになる」【1】 ノーベル賞経済学者が安倍総理に直訴:PRESIDENT Online – プレジデント

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「今まで日銀や日本政府が実行したことは、消費税増税を除いてはすべて歓迎」――。ノーベル賞経済学者が、今後の日本経済を展望する。

ヒナ祭りと桃の花

投稿日: 2014年3月3日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

ヒナ祭りと桃の花 男雛・女雛の実名(いみな)は?

第一話 天神四代とお雛様
 この物語は、遠い昔霧のかなたのおおよそ三千年前のお話です。
 天照神の日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)オシホミミとタクハタチチ姫(伊勢外宮・豊受神の玄孫・やしゃご)の結婚の儀を間近にひかえて、宮中は支度に追われる気忙しい毎日でした。
 その頃、天照神はイサワノ宮(現・伊雑宮いざわのみや。三重県磯部町)に坐して、君の御心は天下あまねく照り輝き民も豊かに暮らしていました。皇子オシホミミはタカの国府(こふ、現・多賀城市)のツボワカミヤ(壷若宮)に坐して、ヒタカミノ国(日高見国、旧・陸奥)を治めていました。
 そんなある日のことです。もうすぐ君の奥方になられるタクハタチチ姫(真名スズカ姫)の兄タカギが、君に質問をしました。これは、晴れの婚礼前に緊張を少しでも和らげて一時をくつろいでお過ごしいただこうとの配慮あってのことでした。
 「結婚式の時、神前で新郎新婦が交す三三九度のお神酒(みき)には、一体どんな言われがあるのでしょうか」と、居並ぶ諸神の同意を得るかのようにゆっくりとお聞きになりました。
 これを聞いた君はにっこりと微笑まれると、臣や司を始め大勢の諸神、諸民を前にして静かに天地創造の物語から始めました。
 「それは遠い遠い昔のことです。まだこの高天原(天体)が生まれるずっと前のこと、天も地も未だ分かれていない、もちろん太陽も月も星も生まれていない前のことです。このウツホ(宇宙)の闇を支配していたのは、混沌としたアワ、ウビ(エネルギー)のようなもので、それは限りなく巡り漂って煮えたぎり、姿も形もありませんでした。
 それから長い時が流れて、このウツホの闇が陰(メ)と陽(ヲ)に分かれる兆しが現われ初めました。
 やがてその中にアメミヲヤ神(天祖神)がお生まれになり、神が最初(うい)の一息(ひといき)をウビ煮えたぎるウツホに吹き込むと、宇宙は静かにまどかに(丸く)巡り始めて、その中心に天御柱(あめのみはしら)が立ち昇り、混沌とした宇宙はやっと姿を現わし始めました。
 清く軽く巡れるものは陽(ヲ・男)となって、左巻に廻り天となり太陽が生まれました。重く濁れるものは、右巻に巡り陰(メ・女)となり、このクニタマ(地球)となり、後に月を生みました。
 さてこの地球に最初にお生まれになられた神のお名前を、クニトコタチと申し、花タチバナの木を植えて理想郷トコヨの国を建国しました。  クニトコタチは八人の御子を産んで、その御子達を世界の八方に派遣し、それぞれの国を建てて治めさせたので、この八人をヤモヤクダリ(八面八降)の御子といいます。後にこのヤミコ(八御子)はそれぞれの国の国王の先祖となりました。この二代目の世嗣(よつぎ)の八御子を総称してクニサッチといいます。そのいわれは、クニトコタチは始め自分同様サギリ(厳選)の道を以て全世界を一人に統治させようとしましたが、各々譲り合ってお互いを立てたので、やむなくサッチ(分割)の道で国を与え治めさせました。
 ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八御子の名は、各々クニサッチの神の頭文字を表わし、たとえばトのクニサッチ、ホのクニサッチ、カのクニサッチ。。。のように呼びました。このようなわけで、この国では八(ヤ)という言葉にはたいへん尊い意味があり、ヤモトカミ(八元神)とも言って、世界の大元はこの八柱により支えられています。
 後にこのトホカミエヒタメの八神は、各々五人ずつ子供をもうけました。
 次に、この八面(ヤモ・世界)を嗣いで治めた三代目の神の名をトヨクンヌといいます。トヨクンヌは天命を受けて、神の子孫を君、臣、民(きみ、とみ、たみ)のミクダリ(三降・三階級)に分けて各々の役割を定めて国を治めました。
 この神の弟君にウケモチ(保食)という神がいました。ウケモチの神は、何とか民を豊かに繁栄させたいと望んで、ある日天にましますアメミオヤ神に一心に祈ったところ、ついに御心が通じて天からヒヨウル種(太陽と月の精気を含んだ種)が落ちてきました。この種を水辺に蒔いたところ、ウル田(水田)のゾ苗(水稲・うるち)となって、八月一日(旧暦)には稲穂もあつく実って大豊作となりました。ウケモチはこの悦びを先ず兄トヨクンヌに報告して、八房(やふさ)に実った稲を献上しました。
 大変喜んだトヨクンヌはこの稲穂をアメミオヤ神とアメミナカヌシ神に捧げて、先ず感謝のお祭をして、各々県主(あがたぬし)に分け与えて国に籾(もみ)を持ち帰らせて、順次民に分け与えて広めたので、稔りの秋祭を皆が楽しめるようになりました。この時から民の糧も増えて暮しも豊かになり国の平和が永く続くようになりました。
 諸民は、ウケモチの神をイナリ神(稲荷)と称えて、後の世まで感謝の心を伝えました。これにより八月一日には親しい人を招いてご馳走をふるまい、お互いに贈り物をして楽しむ風習が始まりました。これを八朔(はっさく・八月一日)の祝といいます。
 さて話を元に戻して、トヨクンヌの神は男女合わせて百二十人もの御子に恵まれましたが、各々がお一人でお暮らしになり、男女が一緒に暮らす夫婦(めおと)の道はまだ定まっていませんでした。こんな訳で、三代目までの神様を独神(ひとりかみ)といいます。
 丁度、天の真榊木(まさかき)を植え継いで、五百本目になる頃のことです。四代目を嗣いだ男神の名前をウビチニと言い、この神はスビチニと言う女神と初めてご夫婦になられて最愛の妻としました。
 この両神(ふたかみ)の美しい物語が雛祭の由来となり、男女の結婚制度の始まりともなりました。」
 君はここまで一気にお話になると、一息つかれて、間もなく迎えるタクハタチチ姫との生活(くらし)に思いをいたし、大層和まれたご様子でした。
「むかし昔、コシの国(越前)のヒナルノ岳(現・日野山、越前富士)の神の宮(日野神社、福井県武生市)で、木の実をお持ちになってお生まれになった男女の御子がありました。
 その種を庭に植えておいたところ、三年目の三月(やよい)の三日に、百(たくさん)の美しい花が咲いて初夏になると香りの良い実が百(たくさん)なりました。花も果も百(モモ)に付いたので、この花をモモの花と名付け、実をモモの果と呼び、モモの木といいました。
 この若い両神(ふたかみ)の名前もモモの木と実にたとえて、男神の名をモモヒナギと名付け、女神の名はモモヒナミと名付けました。
 因にヒナ祭のヒナの意味は一(ヒ)から七(ナ)までで、まだ人(成人、一から十、ヒからト)になる前の若者のことです。  君と呼ぶのは、桃の木(キ)と実(ミ)のことで、この時から男神の名前には木(キ)、女神には実(ミ)と付けるのが習わしになりました。(例:イサナギ、イサナミ)
 モモヒナギとモモヒナミが人(ヒト)として立派に成人されたある年の弥生三日のことでした。この時初めて御神酒(おみき)を造り両神に奉りました。このお酒を造った神はイノクチという所のスクナミ神で、庭の竹株に雀がたくさん集まって籾(もみ)を入れるのを見ているうちに、ふと閃いて、籾を醸してにごり酒を造り、桃雛木(モモヒナギ)と桃雛果(モモヒナミ)神に、竹筒に入れて献上したところ、モモヒナギの神は大層このお酒をお誉めになり、スクナミ神にササナミという神名を新たにくだされました。このササナミ神は後にササケ山に祭られて、サケの語源となりました。この両神に捧げたお酒を、桃の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と名付けました。
 時は春、満開の桃の花の下で盃に酒を酌み、先ず男神が女神にすすめて女神が先に、逆さに写った月影をそおっと飲み、後に男神が飲んでお二人は床に入られ交わりました。これを、トコミキ(床神酒)と言います。
 お二人の愛の交わりは大層熱く、室に閉じ籠ったまま三日目の朝ようやく姿を現わしました。たぎりつきせぬ情熱を冷まそうと清流で寒川(さむかわ・氷川)を浴びた時、二人の情熱は完全に燃えて昇華していきました。その折に、袖を大(ウ)そう濡らしてしまわれたのが男神、少(ス)々濡らされたのが女神。それ以来、男神の名をウビチニ(大きくちびる)、女神をスビチニ(少しちびる)と名付けました。
 このウビチニとスビチニ神の愛の炎は高く天に昇って、これも古い伝えにある天地創造の頃のウビが煮えたぎる様を彷彿させるものでした。
 この様に多い(ウ)少ない(ス)を表わすウ・スのお名前の両神の美しいお姿は、男神は冠(かむり)をかぶり大袖を召し、袴をはいていました。女神は小袖に上被衣(うわかつぎ)を召して、二人立ち並ぶお姿(立ち雛)は雛形(ひながた)として、永く今日まで伝えられています。
 この時、両神にならって八十人の有力な神様達も皆妻を娶り、結婚式を祝うようになりました。この後、諸民も皆妻を定めて夫婦となり、この時結婚の風習が天下の法(のり)と定まりました。
 三年後の弥生の三日を記念して、ここに三三九度のしきたりがうまれました。
 この日の宵に花の下でお神酒を酌み交わした盃に、月が逆さに写り映えるのを楽しんで飲みほしたところから盃(さかずき・逆月)の言葉もうまれました。人々はこのサカズキを生んだ両神をヒナガ岳の神として末永く称えました。」
 君はこの後、五代、六代、七代の天神のお話に移っていきました。
第二話 少彦名(スクナヒコナ)と雛祭り
 大国主の本当のお名前をヤシマシノミノオオナムチといいます。
 生まれながらにして、優しい性格の持ち主で、人々の信望も厚く、国土経営にも優れた手腕を発揮しました。雨の多い冷害の年も、台風による被害にも、日照り続きの乾ばつにも人々を飢えから守るための倉には、備蓄米が満ち満ちて国は平和を謳歌していました。
 そんなある日、オオナムチが農業指導のために大国の郷(さと、現・豊郷、愛知川町付近、滋賀県)を巡視していた折、湖の彼方から鏡を舳先(へさき)に付けた舟が近ずいてくるのに出合いました。
 オオナムチが供の者に、
 「あれは何者か」と、聞きますが誰も答えられませんでした。その時一人クエヒコ(大神神社、摂社クエヒコ神社、奈良県)という者が進み出て申し上げるには、
 「あの者は、カンミムスビ(タカミムスビ六代目、白山神社祭神)の千五百人もある御子の中でどうしようもない落ちこぼれの、教えの指をもれ落ちたスクナヒコナでございます」と、答えました。
 これを聞いたオオナムチは思うところあって、スクナヒコナを丁重に迎えると手厚く恵んで、供に力を合わせて一緒に諸国を巡り国民の糧となる水田開発に努め、養蚕や裁ち縫いの技術を女性達に教え広めて国土経営に尽くしました。
 又、病める者のためには薬草を栽培して、時には人間にとどまらず鳥や獣の病気も治して愛情を注ぎました。
 ある時は、稲子(いなご)の大量発生の報を聞くとどんな遠方へも一緒に馬で駆けつけて、オシ草(玄人)と言う薬草で虫祓いをして民の糧を守りました。
 この様に、一見順風満帆の二人の国造りにも、満れば欠けるのたとえがあるように、暗い人生を暗示するかのような、むら雲がおおい始めるのを誰が知りえたでしょうか。
。。出雲の国譲り。。
 ついに、オオナムチは、いわれなく諸悪の根源として宮中から攻撃され、国を追われて最北の地、津軽に追放されてしまいました。
 この事件があってからのスクナヒコナは一人オオナムチと離れて、アワ国(現・滋賀県)に伝わるカダの楽器を一心に習得すると、あまりにも献身的に、あまりにも国に思いを託した自分の生き方をすべて捨て去り、心の苦しみを背負ったまま諸国流浪の行脚に身をやつしました。
 津々浦々を巡り歩いてカダ楽器で弾き語る物語は、いつも決まって人の心が美しく優しく輝いていた天神四代のヒナ祭りの物語でした。
 人々が忘れ去っていたヒナ祭りの物語を全国に教え広めて、やがて年老いるとついに和歌の国のカダの浦に一人至り、ウビチニ・スビチニの微笑む雛の国へと神上がりました。
 今日でも人々は、あまりにも一途で、あまりにも壊れやすかったスクナヒコナの人柄を知ってか知らでか、アワシマ神(注・アワの国に出現した神)としてご当地の淡島神社(別名 加太神社、和歌山市)にお祭りしています。
 毎年弥生の三日になると、全国各地から持ち寄った雛人形を社前に奉納し、雛流しの神事を盛大に祝ってスクナヒコナを偲んでいます。
第三話 結婚三日目朝の祝い歌
 これはヒコホホデミとトヨタマ姫の鹿児島宮(現・鹿児島神宮祭神カモハデズミ)で結婚式後の三日目朝のお話しです。
 トヨタマ姫の兄トヨズミヒコ(弟タケズミヒコは下鴨神社祭神、京都)は、今回新たに定まった六人の局(つぼね)達に、各々桃の花をあしらった揃の玉笠をかぶらせ、皆の手には木の玉椀(たままりも)に水を張って持たせると、いよいよ結婚三日目の朝、新婚ホヤホヤの二人が部屋から出てくるのを待ちました。
 やっと手を取り合って先に現われたヒコホホデミに、六人の局達は一斉に水を降り注いで声をそろえて歌いはやしました。
モモヒナギ  交合(まじばい)後の  三日の日の
川水浴びて  ウビチニの  上(神)から下(シモ・民)へ
花婿(はなむこ)に水  まいらせう  まいらせう
 この時、九州の三十二県の県主達(あがたぬし)も諸民と一緒になって声を揃えて、この祝い歌を唱いはやして、ついには万歳万歳(よろとし、よろとし)の喜びの声が輪となって国中に広がってゆきました。
終り
出典
 ホツマツタエ (国立公文書館蔵)
 秀真(ほつま)政傳紀 (和仁估安聰訳述)

 高畠 精二