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【西尾幹二】河野談話見直し

投稿日: 2013年5月22日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

(再掲)
【西尾幹二】河野談話見直し
http://www.youtube.com/watch?v=fl2jUJWHsCQ

(一部文字おこし)
… そもそもアメリカに、あるいは世界各国に、
戦争と性の問題で日本を非難する資格はありません。
元都立大教授で東洋大学長の磯村英一さんは、敗戦の年、渋谷区長をしていました。
アメリカ軍司令部(GHQ)の将校から呼ばれて
「占領軍の兵士のために女性を集めろ」
と命令され、
レクリエーション・センターと名付けられた施設を造らされました。
当時市民の中には食べ物も無く、チョコレート一枚で身体を売るような女性の話も広がっていました。
磯村さんは慰安婦問題が当時国際的に話題になるにつれ、辛くて
自分が日本人の女性を米軍兵士の自由にされる境地に追いやった恥を
告白せずにはいられない、と懺悔しております。
(「産経新聞」平成6年9月17日)
穏健な良識派で知られる日本芸術院長の三浦朱門先生は
「軍隊と性という問題と取り上げるなら、
戦後の米軍が憲兵と日本の警察を動員して
一定街路を封鎖して、全ての女性の性病検閲を行ったこと、
その際、娼婦でない女性が巻き込まれたこと、
レイプもあったことを是非書いて欲しい。
事件の殆どは闇から闇に葬られた……。」
(「産経新聞」平成8年8月2日)
(→GHQは言論統制をしき、被害者の乙女たちの口を封じた)
パンパンとかオンリーという名で呼ばれた日本人慰安婦が派手な衣装と化粧で
アメリカ兵にぶら下がって歩いていた風俗は、つい昨日の風景であります。
私はいかに少年時代にそれを目に焼き付いて覚えているか、
その日本人女性の数は20万人であります。
これは米軍による「日本人慰安婦」です。
『りべらる』という雑誌があり、
若い女性が特殊慰安施設に連れて行かれて、
初めての日に処女を破られ、
一日最低15人からの戦場から来たアメリカ兵の相手をさせられ、
腰を抜かし、
別人のようになったさまが手記として残っています。
どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、
女たちの嗚咽が聞こえてきました。
二、三か月の間に病気になったり
気が違ったりしました。
これは何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの
縮図だったのです。
(昭和29年11月号)
日本を今告発するアメリカ議会、キリスト教諸団体等は
あなたの父や兄が何をしていたかを知り、
「恥を知れ!」と申し上げたい!
日本政府はアメリカに謝罪と賠償を要求するべきです。
もしそれができない、そのつもりがないと言うのであれば、
日本政府は慰安婦問題についていかなる謝罪も賠償もすべきではありません。
国際関係はなによりも“相互性”と“公平性”を必要とします。
アメリカは日米戦争に於いて自国の正義を守るために、
日本を残虐非道の国であったとしておきたいのです。
さもないと原爆や東京大空襲をした歴史上の犯罪を
正当化することができないからです。
2007年以降のいくつものアメリカ議会の慰安婦決議は、
今迄親米的であった日本人、
戦後アメリカの反共政策に協力してきた日本の保守階層、例えば私もその一人ですが、
その人達を苦しめ、苛立たせています。
このままアメリカが事態を解消しなければ
無実の罪を負わされ傷つけられた日本人の感情は
内攻化し、鬱屈し、反米的方向へ走り出す可能性があります。
一番いけないのは、
日本をホロコーストを犯したナチスの国ドイツと同列に並べて
裁こうとするために慰安婦問題を大きく誇大に描き出すことです。
ここに重要なドイツ語文献、おそらくドイツすらも忘れられている重要な文献
フランツ・ザイドラー『売春・同性愛・自己毀損―ドイツ衛生指導の諸問題 1935-1945』
という本の表紙と目次を持ってきました。
完璧な国家売春を行っていたのは
ドイツなんです。
ナチ管理下の売春では人種問題が難しく、
ドイツ人士官がユダヤ人女性と性交を交わせば死刑でした。
あらゆる点で西欧と東欧ではやりかたが異なり、西欧のオランダやノルウェーなどでは
公娼制度が施設として利用され、
ポーランドやソ連などでは公娼制度が存在しないので
ドイツの前線司令官は半ば強制処置をもって
売春婦になる少女たちをかき集めました。
それでもドイツの慰安婦問題が話題にならなかったのは何故かといえば
それ以外のナチスの犯罪が余りにも巨大で、そのために慰安婦問題が影がかすんでしまったのです。
韓国はベトナムに参戦し、
7000人~2万人の私生児を残しています。
最後の一つのエピソードを申し上げて終わりにします。
戦争中、中国の雲南省の最前線でアメリカ軍に追い詰められた日本の部隊は
隊内にいた朝鮮人慰安婦を
「お前たちは生きて帰れ」とアメリカ軍側に引き渡し、
残っていた日本人慰安婦は兵隊さんと共に自決して玉砕しました。
日本の兵士たちは武士道で戦っていたんです。

http://youtu.be/OpRO2oX5Sy8

【GHQの言論統制】

投稿日: 2013年5月22日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

下記の「【西尾幹二】河野談話見直し」の中で語られています
戦後GHQによって犠牲となった日本人の乙女たちの悲惨な声は
以下の言論統制によって 口を封じさせました。
【GHQの言論統制】

第1条 SCAP(GHQのこと)に対する批判はいけない
    →アメリカ兵に残虐非道な強姦を被った乙女たちの口も封じさせた
第2条 極東軍事裁判(東京裁判)への批判はいけない
第3条 SCAPが日本国憲法を起草したことについての言及と批判はいけない
    →日本政府があくまでも自身で起草したのだという建前で、
     占領軍が押し付けた新憲法草案を発表するよう、
     GHQより強要されたものではなく、両院(衆議院と参議院)でこれを審議させたものとする。
第4条 占領軍が検閲をしていることに関する言及と批判はいけない
    →占領軍がこういう検閲をしていることは言論の自由を抑圧しているわけである。
     ところが、ポツダム宣言は第十条で言論の自由をうたっている。
第5条 アメリカに対する批判はいけない
    →東京大空襲をはじめとした無差別爆撃、広島、長崎原爆投下など、
     数々の虐殺を重ねたアメリカへの批判はいけないというのだ。日本軍の真珠湾攻撃を巧妙に誘導したルーズベルトの陰謀についても語ってはいけないというのだ。
第6条 ソ連に対する批判はいけない
    →日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲での略奪・虐殺、樺太での虐殺、シベリア抑留
    など数々の暴虐行為を重ねたソ連への批判はいけないというのだ。
    ソ連軍が日本人、特に婦女子に対してどのような暴虐な行為をしたか、
    その批判もしてはならないというわけだ。
第7条 イギリスに対する批判はいけない
第8条 朝鮮人に対する批判はいけない
第9条 支那に対する批判はいけない
第10条 他の連合国に対する批判はいけない
第11条 連合国一般に対する批判はいけない
第12条 満州における日本人取り扱いについての批判はいけない
第13条 連合国の戦前の政策に対する批判はいけない
    →世界に蔓延した諸悪の根源・500年に及ぶ白人による植民地政策の歴史を覆い隠した
第14条 第三次世界大戦への言及はいけない
    →第三次世界大戦が起きたら、敗戦国日本がそれに乗じてのし上がろうとか、
    言ってはいけないということ。
    また、ヤルタ密約でソ連に協力させて戦争に勝ったのに、
    米ソが対立していることを批判してはいけないということ。
第15条 ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及はいけない
    →冷戦が厳しくなったらそれに付けこもうなどと、言ってはいけないということ。
第16条 戦争擁護の宣伝はいけない
    →大東亜戦争はこういうわけで避けることができなかった日本にとって
    自存自衛の戦争だったというふうに、日本の戦争遂行を弁護してはいけないということ。
    ところがマッカーサー重大証言でマッカーサーまでもが日本の自存自衛戦争だったことを
    認めてしまっている。
第17条 神国日本の宣伝はいけない
第18条 軍国主義の宣伝はいけない
第19条 ナショナリズムの宣伝はいけない
    →民族主義、国家主義の宣伝もいけない。
第20条 大東亜共栄圏の宣伝はいけない
    →おまえら日本人は、大東亜を解放したなどという生意気なことをいってはならない、ということ。
第21条 その他、以上で特記した以外のあらゆる宣伝は禁止
    →これには何でも入ってしまうどんでもない項目。
第22条 戦争犯罪人の正当化、弁護の禁止
    →これがあるため「A級、ないしB級、C級戦犯」に指名された人たちを正当な根拠によって弁護することも
    一般の日本国民にとっては不可能だった。
第23条 占領軍兵士と日本女性が性的交渉を持っていることを言ってはいけない。
第24条 闇市の取引のことを言ってはいけない
    →占領軍が面倒を見てやっていて、おまえら日本人は、経済面で不都合はないはずだから、
    闇市場のことなどいってはいけない、ということ。
第25条 占領軍に対する批判はいけない
第26条 食糧不足を誇張してはいけない
第27条 暴力と不穏の行動の扇動
    →国民が騒ぎ出すような暴力行為や不穏状態を誘導してはいけない、ということ。
第28条 虚偽の陳述をしてはいけない
    →嘘を言ってはいけないならばいいが、「嘘か本当かは占領軍の検閲官が決める」というふざけたものだった。
第29条 GHQやその地方支部に対する不適切な言及をしてはいけない
第30条 真実の報道であっても、時期尚早の発表はいけない
    →時期尚早かどうかは、占領軍が決める。

日本の正式な国名は「日本国」に非ず!! 日本は今でも「大日本帝国」である

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

「日本の正式な国号(国名)は一体何でしょう?」と質問されたら、皆さんはどの様に答えられるでしょうか? 先(ま)ず百人中、百人が「日本国」と答えるでしょう。しかし、私は敢えて言います。日本は今も尚、

大日本帝国

なのだ、と。では、何故(なぜ)、そう言えるのか? と言う訳で、今回は、日本の国号問題について書いてみたいと思います。

ず、最初に、「日本国」と言う国号について触れてみたいと思います。この「日本国」と言う国号が、「大日本帝国」に代わって登場したのは、昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌昭和22(1947)年5月3日に施行された『日本国憲法』に於いてです。それでは、国号がどの様な経緯を経て、「大日本帝国」から「日本国」へと変更されたのか?と言う事ですが、実は、昭和天皇が「国号変更に関する詔勅」なるものを渙発(かんぱつ)された訳でも無ければ、帝国議会に於いて国号変更に関する法律が可決成立、施行された訳でもありません。つまり、「大日本帝国」から「日本国」への国号変更は、法的手続きを経(へ)る事無く、『日本国憲法』の名称・条文中に於いて唐突に行われた訳です。

「日本国」への国号変更は、法的手続きを経る事無く、『日本国憲法』の誕生と共に行われた。端的に言えば、そう言う事になる訳ですが、果たして、その様な事が法理面から言って、罷(まか)り通る事なのか?と言う疑問が出てくるのも当然です。この事について、ある法律専門家に照会した所、この様な回答が返ってきました。

「『国号』は、国家の基本法である『憲法』で定められる事を原則とします。我が国の国号が『日本国』である事は、『日本国憲法』第1条の規定

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

から見て、疑問の余地はありません。」

つまり、法理面から見れば、『日本国憲法』の施行を以て、日本は「大日本帝国」から「日本国」へと国号を変更した事となり、正当な手続きを踏んでいると言う事になる訳です。しかし、私はそれでも敢えて、

日本は今でも「大日本帝国」である

と断言します。

「日本国」と言う国号は『日本国憲法』に依拠している、と書きましたが、では、その依拠の元となっている『日本国憲法』は果たして正当なものなのか? 私は、以前のコラム120.「不磨の大典『日本国憲法』は国際法違反の産物」に於いて、『日本国憲法』が法的には無効である、と喝破(かっぱ)しました。何故、無効なのかについては、同コラムをお読み頂くとして、『日本国憲法』が法的に無効である以上、それに依拠して為された「大日本帝国」から「日本国」への国号変更についても、法理面から見て無効であると言う事になります。それは裏を返せば、「大日本帝国」と言う国号が正当なものであると言う事にもなる訳です。とは言え、

「いやいや、そんな事言ったって、21世紀にもなって、今更、日本は「大日本帝国」だなんて言われても実感なんて湧かないし、まして、前近代的な「帝国」だなんて・・・」

と言った声も聞こえてきそうですね。確かに、広い世界を見渡しても、「帝国」と名の付く国は一つもありません。しかし、日本が「帝国」である事は紛れもない事実なのです。

前も取り上げた事ですが、日本の「天皇」は英語で「エンペラー」(Emperor)=「皇帝」と呼ばれています。(但し、隣の韓国では今尚、『日王(イルワン)』、と「エンペラー」よりもワンランク下の「キング」(King)扱いですが) しかも、この「エンペラー」は世界中で日本の「天皇」唯(ただ)一人。どうりで、世界中をくまなく探しても「帝国」が見つかる筈がありません。何故なら、

「帝国」とは「皇帝(エンペラー)」が統(す)べる国

の事だからであって、「皇帝」もいないのに「帝国」を名乗る国のある方が不自然な訳です。(欧州を中心に、「キング」=「国王」がいる国は、今でも「王国」を名乗っている) そして、「エンペラー」=「天皇」がいる国、日本が広い世界で唯一、「帝国」を名乗る資格を有しているのです。とは言え、こんな事を仰(おっしゃ)る方もいる事でしょう。

「日本は戦前の『軍国主義』と訣別し、『現人神(あらひとがみ)・国家元首・大元帥(だいげんすい)』だった天皇も、『日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』として実権を持っていない。現に、政務は内閣総理大臣が執(と)っているし、『帝国』どころか、民主主義に基づいた『共和国』と言っても過言では無い」

果たして、本当にそうなのでしょうか? それこそ、とんだ勘違いだと思うのです。

もそも、「『帝国』とは何ぞや?」と言う疑問に対して、私は「『帝国』とは「皇帝(エンペラー)」が統べる国」と答えました。これは、「帝国」の語句を入れ替えれば、そのまま、「王国」にも、ルクセンブルク「大公国」にも、モナコ「公国」にも当て嵌(は)まる話です。「帝国」と言うと、どうも、ロシア帝国や、ドイツ第二帝国(プロイセン)の様な絶対王政国家(専制君主制)が真っ先に思い浮かぶ様ですが、それは18世紀から19世紀にかけて「流行」した政体であって、必ずしも「帝国」とイコールではありません。例えば、タイは国王を戴(いただ)く「王国」ですが、憲法があり(立憲)、政治も首相を長とする政府(内閣)が担当しており、普段、国王は政治に口を挟(はさ)みません。しかし、クーデターが発生する等して、国内が乱れた際には、国王は「調停者」として機能、その一言々々が絶大な発言力を有します。つまり、タイの政体は「立憲君主制」であり、国王に絶大な権力が集中する「専制君主制」では無い訳です。更に言えば、どんなに民主化しよう共、「国王」を戴き続ける限り、その国家は「王国」である訳です。これは、日本にも当て嵌まる事です。日本が憲法を持ち(立憲)、国民によって選ばれた議員によって国会が営まれ(議会制民主主義)、その国会議員の中から首相以下閣僚(一部、民間人の起用が可能)が選ばれ内閣を組織(議院内閣制)し実際の政治を行っているとしても、「天皇」=「エンペラー」を戴いている以上、立憲君主制の「帝国」である事は疑うべくも無い事なのです。

後に、「国璽」の話でこのコラムを締め括(くく)りたいと思います。先ず、「国璽」が一体何なのか?と言うと、早い話が、「国家の実印」の事です。

 国璽 (こく-じ)
国家の表章として押す官印。我が国では明治元(1868)年初めて使用。現行の物は明治7(1874)年に改刻された方3寸の金印(それ以前は、方2寸7分の銅印)で、京都の篆刻家、安部井櫟堂(あべい-れきどう)による作。『大日本帝国憲法』下では、批准書・全権委任状・信任状等の国書・親書及び勲記等に用い、御璽(ぎょじ:天皇の金印)と共に内大臣が保管したが、現在は勲記にのみ用い、侍従職が保管。

その「国璽」には一体何と刻まれているのか? それが何と、「大日本国璽」(下写真が印影)

 

と刻まれているのです。現在の国号は「大」の字を冠さない「日本国」と言う事になっているにも関わらず、「国璽」に刻まれている文字は「大日本」。とは言え、中には、こんな事を仰る方もいる事でしょう。

「『大日本帝国国璽』と言った具合に『帝国』の文字が入ってはいないし、刻まれている『大日本』にしても、『大』の字は単なるお飾りなのでは?」

いえいえ、とんでもありません。現在使われている「国璽」は明治7(1874)年に鋳造された物で、れっきとした「大日本帝国」時代の代物。裏を返せば、国号が「大日本帝国」から「日本国」に変更されたにも関わらず、「国璽」は「大日本帝国」時代の物をそのまま使い続けている訳です。(漏れ聞く所に拠ると、GHQによって『日本国憲法』が「制定」された際、これを快く思わなかった関係者が新国号「日本国」に見合った「国璽」を新造する事無く、敢えて、「大日本帝国」時代からの「国璽」を踏襲する事で「抵抗」の意を示したとか)

(いず)れにせよ、

  1. 「日本国」と言う国号は『日本国憲法』に依拠しているが、その『日本国憲法』が国際法違反の産物である以上、それに依拠している「日本国」と言う国号に正当性は認められない。
  2. 日本が天皇を戴く国家である以上、たとえどの様な政体であろう共、「帝国」である事に疑問の余地が無い。
  3. 日本の「国璽」は、「大日本帝国」時代の物を未だに用いており、その刻印には「大日本」と刻まれている。

である以上、日本の国号が、誰もが疑問を持つ事さえ無かった「日本国」では無く、「大日本帝国」である事は疑うべくも無い事なのです

、「平和国家」としての江戸日本Tokugawa-Japan

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

戸時代。慶長8(1603)年の「江戸開府」(徳川家康の将軍就任・幕府創設)から、慶応3(1867)年の「大政奉還」に至る、徳川将軍15代265年間に及んだ時代です。この江戸時代について、皆さんが連想するものは? と聞かれたら、一体何と答えるでしょうか? 水戸黄門・大岡越前・暴れん坊将軍・桃太郎侍・・・うーん、ちょっと、テレビ時代劇(以下、単に「時代劇」と略)の見過ぎですね。切り捨て御免・辻斬り・ご禁制の阿片(アヘン)・・・益々、時代劇の見過ぎですね。確かに、時代劇には、よく「江戸時代」が取り上げられますし、お茶の間でも結構人気の高いドラマのジャンルだとは思います。しかし、こう言った時代劇に登場する「江戸時代」は、およそ現実の歴史からはかけ離れている事も、ままあります。と言う訳で今回は、時代劇の「江戸時代」と実際の「江戸時代」を比較検証してみたいと思います。

ずは、犯罪から。よく時代劇では、毎日の様に、どこかで殺人事件が起き、その度に同心やら岡っ引きが町中を飛び回っていますが、あれは「ウソ」です。当時も確かに犯罪はありました。しかし、犯罪の多くが今で言う所の「軽犯罪」であって、殺人・放火と言った「凶悪犯罪」は殊の外、少数でした。ですから、たまにどこかで殺人事件でも起きようものなら、瓦版(かわらばん:現代の新聞・週刊誌に相当)が大上段な記事を載せ、それを読んだ町人達は、その噂で持ちきりだったそうです。今なら、さしずめ、世間を震撼させる様な大事件をテレビのワイドショーが大々的に取り上げる、と言った所でしょうか。つまり、それ程、殺人事件等の「凶悪犯罪」が少なかったと言う事です。ですから、仮にタイムマシンが存在し、江戸時代の人間を現代に連れて来たとしたら、その人は自分の住んでいた江戸時代よりも現代の方が、余程恐ろしい社会に思えるでしょう。それ程迄に、江戸時代(幕末動乱以前)とは人々にとって「平和」な時代だったのです。しかし、何故、「凶悪犯罪」が少なかったのか? それは、現代の様に犯罪者を社会から「隔離」しなかったからです。例えば、凶悪犯罪の犯罪者が「死刑」に処せられるとします。現代では、刑務所の中で「ひっそり」と刑が執行されますが、当時は、市中引き回し(町人に犯罪者の顔を晒(さら)して回る事)の上、刑場で公開処刑されたりしました。つまり、町人は処刑を実際に目にする事が出来た訳です。まあ、現代の人権擁護派からは「残酷過ぎる」・「人権無視」等と言う意見が出るのでしょうが、当時は、「こんな凶悪犯罪を犯すと、あんな風にされるんだよ」と言った意識を処刑を目にした町人達は抱く訳で、凶悪犯罪の「抑止」効果としては、最も有効だった訳です。

、時代劇に出てくる「ご禁制の阿片」も「ウソ」です。当時の日本人で、阿片 ── 麻薬等を吸引する様な人間は、誰一人としていませんでした。現代は、麻薬の密輸売買で、莫大な利益を上げようとする不埒(ふらち)者や、その麻薬に手を染めて中毒にかかる人間も後を絶ちません。しかし、当時、麻薬は「嗜好品」として認知されていませんでしたし、大枚(大金)をはたいて、そんな訳の分からない物を買おう等と言う日本人もいませんでした。ですから、時代劇の様に、長崎奉行が、シナ辺りから「ご禁制の阿片」を密輸して莫大な利益を上げる、等と言った事は到底あり得ない訳です。何故なら、日本国内に阿片を求める需要も無ければ、市場(マーケット)も無かったのですから・・・。

に、切り捨て御免について。「特権」として、当時、武士が「名字帯刀」(名字を名乗る事と、刀を持つ事)を許されていたご時世です。そして、武士が町人や農民を「無礼討ち」 ── つまりは、「切り捨て御免」する事も許されていました。しかし、「無礼討ち」と言う以上、相手が明らかに無礼を働いた事が前提でした。もし、何の理由も無いまま、相手を切り捨てたりすれば、それは単に犯罪としての「辻斬り」と言う事になります。しかし、江戸時代前期こそ罷(まか)り通った「切り捨て御免」も、後期ともなるとほとんど「絶滅」します。何故、「絶滅」したかと言うと、「無礼討ち」に及んだ武士もただでは済まなくなったからです。どう済まなくなったかと言うと、「無礼討ち」をすれば、最悪の場合、切腹(自害)しなくてはならなかったからです。つまり、相手が例え町人であろうと、刀を抜いて斬りつける時は、命を捨てる(切腹する)覚悟が必要だったと言う事です。もっとも中には、刀が「真剣」(正真正銘の日本刀)では無く、「竹光」(刃が竹で出来ている偽物の刀)だったので、抜くに抜けなかったと言う事もあったでしょうが・・・。

後に、「平和国家」としての江戸日本について。江戸時代は、「幕藩体制」と言う封建社会と、「鎖国」に代表される外部との交流を拒絶した閉鎖社会として、以前から、マイナス・イメージで捉えられてきました。確かに、「士農工商」(武士・農民・工人・商人)からなる階級制度や、海外との自由貿易の禁止等、マイナス面があったのも確かです。しかし、その「江戸時代」が、海外では「Tokugawa Japan」(トクガワ・ジャパン:徳川幕府治下の日本)として高く評価されている事も事実です。何故、高く評価されているのかと言うと、第一に、犯罪の少なさ(前述の通り)・第二に、清潔に保たれた都市環境(昔のパリやロンドンは、町中、排泄物・汚物だらけ!!)・第三に、勤勉実直で道徳心に富む国民(これは、戦国末期や幕末期に来日した外国人が指摘している)、そして、「平和国家」として、江戸日本に「実績」があったからなのです。この「平和国家」としての日本は、「Pax Tokugawana」(パックス・トクガワーナ あるいは、Pax Tokugawa パックス・トクガワ:徳川による(日本の)平和)と呼ばれているのですが、これは、元和元(1615)年の「大坂夏の陣」を最後に、幕末に至る迄、実に250年にわたって、これと言った戦乱も無く、幕府が常備軍(国軍)を組織せず、ましてや領土拡張を狙った海外侵略も企てず、ひたすら「泰平の世」(平和)を謳歌してきた事に対する賞賛です。それに対して、隣国・シナ ── 当時の清国は、康煕帝から乾隆帝に至る全盛期に、領土拡張の為の遠征をしていますし、欧米列強諸国も、世界各地に植民地獲得の為に、兵を送っています。そう考えると、日本列島と言う狭い空間の中で、曲がりなりにも自給自足体制を確立し、戦乱とは無縁な社会を維持してきた徳川将軍15代265年間 ── 江戸時代とは、ある意味では、現代以上に平和な時代だった共言えます。

朝鮮総督府に見る「日帝」の功績

投稿日: 2011年10月10日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

治43(1910)年の「日韓併合」から、昭和20(1945)年の「光復」(独立)に至る日本の朝鮮半島支配を、コリア人は「日帝(イルチエ)36年支配」と称して、「この世の生き地獄」であったかの様に主張します。しかし、本当にそうだったのでしょうか? 今回は、彼らコリア人が忌み嫌い、そして「憎んだ」朝鮮総督府(上写真)の功績について書いてみたいと思います。

くコリア人は、「日帝支配」 ── とりわけその先兵だった朝鮮総督府を、「悪の権化」の様に扱います。彼らコリア人に言わせると、「日帝の七奪」(国王・主権・土地・資源・国語・人命・姓名の七つを奪ったと言う)を実行した張本人で、朝鮮半島を荒廃させ、コリア人を塗炭の苦しみに陥れた事になるのですが、これはどう見ても明らかな歴史歪曲です。国王(国家元首)・主権(国家主権)・土地(領土)は、日本による強制的併合ではなく、両国の合意の下での併合でした。又、資源の奪取(搾取)については、併合時、とりたてて資源と呼べる資源が朝鮮半島には存在しませんでした。資源と呼べる資源が無かったのに、どうして、資源の奪取が出来たのでしょうか? 不思議で仕方ありません。更に、国語(朝鮮語)の「禁止」ですが、実際には朝鮮語の禁止はされてはいません。例えば、玄永燮(ヒョン・ヨンソプ:「日本人以上の日本人」と呼ばれた)・朴煕道(パク・ヒド:「三・一独立運動」時の民族代表の一人)等が南次郎総督に、「朝鮮語使用の全廃」を建議した際、南総督はむしろ極力反対したと言われています。そして、コリア人は触れたがりませんが、戦後、「コリア人の誇り」と呼ばれた、あの「ハングル」をコリア人に普及させたのは、「国語を奪った」と言われている朝鮮総督府だったのです。今でこそ、「コリア人の誇り」と呼ばれる「ハングル」は、併合当時、両班(ヤンバン)に代表される知識人階級からは、「アムクル」(女文字)・「アヘックル」(子供文字)等と蔑(さげす)まれ、一般コリア人には全く普及していなかったのです。(何せ、李朝第10代国王・燕山君(ヨンサムグンが「ハングル教授学習禁止令」を出し、第11代・中宗(チュンジョン)は「諺文庁」を閉鎖したくらいですから、推して知るべしです) この様に、「日帝の七奪」が歴史歪曲である事がお分かり頂けた事と思います。これらは、戦後、韓国においては、李承晩(イ・スンマン)・初代大統領の、北朝鮮においては、金日成(キム・イルソン)・国家主席の徹底した「反日(コリア民族賛美)教育」による所が大きいのです。そして、多くのコリア人が、未だその「呪縛」から抜け出す事が出来ないでいるのです。

て、いよいよ「本題」である朝鮮総督府の「功績」について書いてみたいと思います。まず第一に知って頂きたい事は、日本は朝鮮半島を「搾取」したどころか、反対に日本本国から莫大な資金を朝鮮半島に投資したと言う事実です。「日韓併合」以来、年に一千数百万円から二千万円(当時の金額)もの一般経費補充金が、朝鮮総督府特別会計に補填され、その財政運営を支え続けたのですが、これらの資金はコリア人から搾取したものではなく、日本の国家予算(とどのつまりが、日本国民から徴収した「血税」)や、日本の金融市場で調達した公債だったのです。当時、帝国主義の時代、世界中のどの植民地政策を見ても、植民地(厳密に言うと、朝鮮半島は日本の植民地ではないが)に対して本国政府が莫大な資金を投資した例は希有でした。多くは、本国政府が植民地から利益を吸い上げていた訳で、日本の植民地政策の「特異性」とも言えます。つまり、コリア人が言う所の「搾取」は、「真っ赤な嘘」だった訳です。

二に、朝鮮半島のインフラを整備したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。戦後、韓国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる国家の復興と高度経済成長を自慢しますが、その多くは、「日帝時代」に整備されたものなのです。朝鮮半島全土に張り巡らされた道路網・鉄道網・港湾施設等の交通インフラは、朝鮮総督府時代に、日本から投資した資金を元手にして建設整備されたのです。そして、その多くが現在でも利用されているのです。(以前、「漢江の奇跡」時代に突貫工事で建設された橋が自動車の重みで落下した事故があったが、それ以前 ── 「日帝時代」に建設された橋は今尚、現役で活用されている) この交通インフラの整備によって、「陸の孤島」同然だった町や村が接続され、人や物資の往来が活発となり、その結果、朝鮮半島の近代化が加速したのです。又、鉄道網や都市整備が進むと、必然的に電力の確保が必要となります。そこで、炭鉱・砂防・治水・電力・通信網(電信電話施設)の開発整備をも進んだのです。

三に、食料の自給体制を確立したのは、朝鮮総督府だったと言う事実です。朝鮮半島は李朝末期、山は至る所、「禿げ山」。天候不順・農法の稚拙さ(粗放農業)と、両班等による度重なる過酷な搾取によって農民達は労働意欲を無くし、農地の荒廃が進んだのです。元々、粗放農業で収穫率が低かった(「天水田」で、三年一作)所へ持ってきて、農地の荒廃が進んだので、朝鮮半島は現在の北朝鮮同様の、慢性的な食糧不足 ── 飢餓状態に陥っていたのです。そこで、朝鮮総督府は、治山・治水工事を筆頭に、荒れ地の開墾・干拓・灌漑用水の整備と農業インフラの整備をし、更に、粗放農業から集約農法へと転換させ、冬季等の農業閑散期には在宅副業等を奨励し、農民の意識と生活水準の向上を図ったのです。その結果、慢性的な食糧不足に苦しんでいた朝鮮半島は米の増産に成功し、遂には内地(日本本土)へ「輸出」する迄になったのです。

後に、悪名高き「創氏改名」について書いてみたいと思います。「創氏改名」と言うのは、コリア人の名前 ── つまり「朝鮮名」を、「日本名」に改名させたと言われるものです。しかし、実際の所、「創氏改名」は朝鮮総督府による「強制」では無く、コリア人側からの要望でなされた措置で、「自己申告」制だったのです。(「創氏改名」と言い、「日韓併合」・「日本語教育」と言い、コリア側から発議されたものが、「日帝」による強制に変わってしまうのですから、何とも釈然としません) この「創氏改名」は内地に出稼ぎ労働に来たコリア人が、コリア人である事で、待遇等で「差別」されない様に、「日本名」を名乗る事を許可した措置なのです。そして、「創氏改名」は、日本とコリアが「同文・同種」で「同祖」であると言う思想(「日韓併合」・「日鮮合邦」の根本理念)に基づいたもので、現に、朝鮮半島と同様に、総督府が設置されていた台湾に対しては、「創氏改名」は許可制で、その審査基準も極めて厳しいものでした。又、「創氏改名」がコリア人を「人種差別」する為になされた措置だと主張する人がいますが、これも違います。例えば、朝鮮半島出身の生粋のコリア人であるにも関わらず、帝国陸軍に入隊し、遂には「陸軍大将」と言う陸軍最高の地位にまで登りつめ、最後まで「帝国軍人」として自らを全うした人もいました。もし、日本がコリア人に対して政策としての「人種差別」をしたと言うのであるならば、この逸話はどう解釈すればいいのでしょうか?(日本人であっても、「陸軍大将」にはおいそれとはなれないものです)

上、簡単に見てきましたが、如何だったでしょうか? コリア人によって「悪の権化」 ── 「日帝36年支配」の代名詞とされた朝鮮総督府。しかし、その実態は、朝鮮半島の近代化に多大な貢献を果たした存在だったのです。コリア人が、「負の遺産」としての植民地支配を声高に叫ぶのも結構ですが、「正の遺産」としての朝鮮総督府による朝鮮半島近代化の功績も認めるべきではないでしょうか? それが「フェア」な物の見方と言うものだと思うのですが・・・。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

本の過去の戦争責任でよくやり玉に挙げられるものに、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」があります。「南京大虐殺」については多分に支那の「歴史捏造」の所産であると私自身思っていますが、今回は、もう一方の「従軍慰安婦」問題について考えてみたいと思います。

 

「従軍慰安婦」。日本軍が戦時中、コリア人や支那人等の若い女性を組織的に連行して、日本兵の溜まっている「性欲のはけ口」にしたと言われているもので、現在も保障を求めるコリア人女性が日本政府を相手取って損害賠償請求裁判を求めています。しかし、はっきり言いましょう。「従軍慰安婦」等と言うものは、当時、存在し得なかったと。それは、なぜか? まず、「従軍慰安婦」なる用語は戦後生まれたもので、当時は存在しなかったからです。又、「従軍慰安婦」問題で、日本の進歩的文化人や支援者達は「女子挺身隊」と混同しますが、「女子挺身隊」は軍需工場等で、落下傘(パラシュート)や兵器の生産に従事した女性達の事であって、決して、「売春」を生業(なりわい)とはしていませんでした(私の伯母も「女子挺身隊」だった)。そして、決定的な事ですが、「従軍慰安婦」は明らかに歴史捏造の産物だと言う事です。

 

成3(1991)年末、かの『朝日新聞』が「従軍慰安婦」問題で徹底的な糾弾キャンペーンを展開した事がありました。この時、吉田清治(よしだ-せいじ)氏の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983)の「慰安婦狩り」の問題が、

 

「済州(チェジュ)島にて軍の協力により、慰安婦狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した」

 

と言う記事として掲載されました。しかし、その後、千葉大学の秦郁彦(はた-いくひこ)教授の実地調査では、吉田氏の著書は「捏造」である事が発覚(その報告は『正論』1992年6月号 に詳しい)。又、『週刊新潮』1995年1月5日号 の取材結果でも、事実無根である事が判明。当の著者も「あれは創作だった」と認めたのです(記事捏造がお得意な、天下の大新聞『朝日新聞』の面目躍如ですね>笑)。 では、世に言われる「従軍慰安婦」は全く存在しなかったのでしょうか? 実は存在していたのです。しかし、その実態は、戦後言われるようになった「従軍慰安婦」とは全く違うものだったのです。

 

時中、「従軍慰安婦」は存在した。この一語を以て、進歩的文化人や支援者達は小躍りするかも知れませんが、それは彼らの早合点と言うものです。私が言いたいのは、民間業者が日本軍向けに行っていた「売春」は存在しただろうが、日本政府・軍が「国策」として、「従軍慰安婦」に関与した事実は無いと言う事です(両者を混同すべきではない)。まず、当時 ── 戦後になって「従軍慰安婦」と呼ばれる事となる女性達の多くが、大和撫子(やまとなでしこ) ── 「日本女性」だったと言う事実です。そして、彼女達は「強制連行」されて来た訳ではなく、自ら「志願」してその世界に飛び込んだと言う事実です。よく、「従軍慰安婦」と言うと、軍の管理する施設に「隔離」され、外界とは接触を許されずに、来る日も来る日も、日本兵の相手をさせられたと言う事になっていますが、これも虚偽です。彼女達は、食べ物にも事欠くご時世の中、「三度の飯」が保障される「従軍慰安婦」の世界に自ら飛び込みましたが、軍の管理する施設に隔離等されてはいませんでした。又、時として、「客」として通ってくる常連兵士と街に出て、ご馳走を飲み食いし、ダンスを踊ったりして楽しんだ共言います。こう言う証言に接すると、当時の「従軍慰安婦」達と、現代の風俗嬢達と、一体、待遇で何処が違うのか?と考えざるを得ません。

 

かし、それでも、進歩的文化人や支援者達は「従軍慰安婦」はあった!! 「日本軍による強制連行」はあった!! と声高に叫ぶでしょう。しかし、戦後半世紀を経た今の今迄、何一つ、「日本軍による強制連行」を裏付ける明確な資料は見つかってはいません。あるのは、損害賠償を求める「被害者」達の証言だけ。日韓両国間での戦後賠償が決着済みな事もありますが、証拠資料が無い現状では、たとえ裁判をしたとしても、裁判と言う裁判になる訳もなく、事態がより混迷・複雑化するだけです。又、当時は、「公娼制度」 ── つまり「売春」が公認されていた時代です。当時の日本同様に、朝鮮半島の貧村の食うや食わずの家庭で、親が自分達の娘達を「身売り」した事もあったでしょう。とすると、親に「身売り」された共知らない女性が、女衒(ぜげん:遊女等の口入れ手引きを生業とする仲介業者)を日本軍の差し向けた「強制連行」の実行者と、思い違いをしたとしても何ら不思議では無いのです。

 

後に、「従軍慰安婦」を声高に叫ぶコリア人に問いたいと思います。コリアでは中華秩序 ── 朝貢制度によって、宗主国・支那と属国・コリアと言う関係が成立して以来、歴代コリア王朝は、歴代支那王朝に対して、「貢女」(コンニイ)と呼ばれる若い女性 ── つまりは「宮廷慰安婦」を「献上」しており、コリアは「貢女」の名産地として有名でした。又、李朝時代には、「妓生庁」と言う役所を設置し、国家管理下に、「妓生」(キーセン)を育成していました。そして、この伝統は、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が推進した国策としての売春観光政策(キーセン・ツアー等) ── 「売春立国」や、北朝鮮の最高指導者・金正日(キム・ジョンイル)肝煎(きもい)りの「喜び組」として脈々と受け継がれているのです。こう見てくると、コリアにおける「貢女」・「妓生」・「売春立国」政策・「喜び組」と、「従軍慰安婦」の何処がどう違うのか? と考えざるを得ません。この点を明確にしないまま、日本の「従軍慰安婦」を殊更(ことさら)問題にするコリアの不条理こそ、問題ではないでしょうか?

 

 

国人が日本の「従軍慰安婦」問題を声高に叫ぶのも結構だが、朴正煕政権時代、東ソウルの漢江(ハンガン)べりの高台に、通称「ウォーカーヒル」と呼ばれる「在韓米軍将兵慰安総合遊興村」を設置した事実を知っているのだろうか? もし、韓国女性を「性の道具」としたとして日本人を糾弾するのであるならば、アメリカ人に対しても同様に糾弾の矛先を向けるべきではないだろうか? アメリカ人はよくて、日本人はけしからん!! と言うのであるならば、それは、日本人に対する韓国人の「人種差別」とは言えないだろうか?

 

参考文献

 

  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

コリア人が待望していた「日韓併合」 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

治43(1910)年8月22日、「韓国併合についての日韓条約」が調印され、大韓帝国は大日本帝国に併合されました。いわゆる「日韓併合」(日鮮合邦)です。これをコリア人は「日帝」(日本帝国主義)による「強制的併合」であり類い希なる「暴挙」だと主張します。まあ、コリア人の「愛国心」や「民族主義」についてどうこうとは言いません。しかし、「日韓併合」における日本の「立場」が一方的に糾弾・断罪される事には承伏出来ないのです。と言う訳で、今回は「日韓併合」についてコリア人への反論をしてみたいと思います。

ず、皆さんに第一に知って頂きたい事は、当時の大韓帝国(1897年、国号を朝鮮国から大韓帝国に改称。以下、「韓国」と省略)が、企業で言えば「倒産寸前」だったと言う事です。「開化派」が甲申政変を起こしたのも、倒産寸前だった李朝を自主再建しようとしたからです。何しろ、国土は荒廃し、慢性的な食糧不足に陥り、政治は腐敗の極に達しており、いつ国家が倒産してもおかしくはなかったのです。そんな実情を見て、日本は日清戦争後、韓国との間に協約を締結し、「保護国」として再建させようとしたのです。この保護国化をコリア人は、「日本は最初から韓国を植民地化する肚(はら)だった」等と主張しますが、それは違います。初代韓国統監となった伊藤博文や井上馨等はそもそも「日韓併合」には消極的でした。考えてみて下さい。健全な体力を持っている企業が、明日倒産するかも知れない企業をそう簡単に吸収合併するでしょうか? あの大国・西ドイツでさえ「東西ドイツ統一」後、旧東ドイツ地域の再建復興に四苦八苦したのですから。現在の韓国と当時の韓国とを同じ目で見てはいけないのです。現在の韓国の様にある程度の国力を備えていたなら、日本にとっても非常に「魅力的」だったかも知れません。しかし、当時の韓国は倒産寸前。日本が「日韓併合」に踏み切ると言う事は、取りも直さず相当なリスクを抱え込むと言う事だったのです。それを如実に示しているのが、当時の日本の「韓国併合反対」論です。その論旨は、「韓国は経済文化レベルが低く、清・露両国と国境を接し、国内政治は党派対立が激しく、官吏の腐敗は極に達しており、政治・経済・文化・社会・国防等非常に問題が多い。その様な韓国を併合すれば、日本は多大な負担を強いられる」と言うものでした。正にその通りだったのです。

て、そんな倒産寸前だった韓国を日本はあえて「保護国」化したのには、当時の日本の朝鮮観が多大な影響を及ぼしていました。それは欧米列強による植民地化や隷属化とは違い、「朝鮮人を扶掖して、日進文華の民となし、帝国の臣民として、永く安寧秩序を完(まっと)うせしむるにある」と言うものでした。つまり平たく言えば、「倒産寸前の『韓国株式会社』に救済の手を差し伸べようではないか」と言う訳です。これが「大きなお世話」だと言われてしまえばそれ迄ですが、日本は「韓国保護国化」後、本国(日本)から莫大な資金を投じて、韓国を支え続けました。韓国中央銀行を設立して金融の建て直しを図ったり、鉄道交通網を整備して近代化の礎を築いたりと言った具合で、コリア人に感謝こそされ、恨まれる覚えはないのです。それでも、韓国政府は日本に恩を徒(あだ)で返すような挙にばかり出ました。それが、高宗によるハーグ密使事件や、閔妃等によるロシアへの接近だったのです。そんな中、日韓双方に新たな模索が始まっていたのです。

ーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」と言った日韓併合・合邦論が急速に台頭してきたのです。又、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだしたのです。

 治42(1909)年12月4日、一進会が百万会員の名において、韓国皇帝(高宗;右写真)・曾禰荒助統監・李完用(イ・ワンヨン)首相宛に、「韓日合邦」の奏上文(請願書)を提出したのです。この一進会は、宋秉畯(ソン・ピョンチュン)李容九(イ・ヨング)等によって明治37(1904)年8月8日に組織された政治結社で、その会員の多くは東学党教徒・独立協会員・農民で構成され「百万会員」を称しました。彼らは日韓両国が共同でロシアの南下を防ぎ、韓国の独立を保障してくれる(「日朝修好条規」で実証済)日本に多大な期待をし、日露戦争に際しては、京義線(キョンウィ:ソウル-義州間)臨時軍用鉄道建設と北進輸送隊への支援を惜しみませんでした。彼ら一進会の考えでは、「韓国の衰微は外国からの圧迫ではなく、自らの反省と自覚の欠如に原因がある。韓日は古来より同文同種(文化・民族の元は同じ)であり、政治経済的利益も一致している。ドイツ合邦国家(プロイセンを主体に統一したドイツ第二帝国)が欧州で覇を唱えるが如く、韓日も東亜の雄邦として合邦すべきである」・「もし東亜の均衡が破られ、韓国が欧米列強諸国の植民地となれば、韓国国民は流出し、国土は廃墟となる事は必定である」と言ったものでした。この様に韓国側でも「日韓合邦」(連邦制)が唱えられたのですが、結局、韓国は「合邦」(連邦)ではなく、「併合」(吸収合併)への道を歩んだのです。

進会の目指す政治的最終目標は、「日露戦争以来、韓国が置かれている「立場」(日本の保護国と言う従属関係)から脱し、植民地化を回避する手段として、「保護」に替えて「政合邦」(政治的合邦国家)する」と言ったものでした。しかし、宋秉畯は、「日韓双方の国力の差・文明の程度の差から「日韓対等合邦」は事実上不可能であり、「連邦制」では欧米列強に対抗する様な強固な国家は建設できない。従って、日韓が一体となり列強に伍す強固な国家を建設するには、大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に委譲するのが、最も現実的である」と主張したのです。そして、結果的に宋秉畯が唱えた通り、「日韓併合」がなされ、韓国は「独立国家」としての主権を完全に消失したのです。それは、さながら「倒産寸前」の巨大企業(韓国)が、世界的再編(帝国主義)の嵐の中で同業の巨大企業(日本)に吸収合併された様なものでしょうか。そう考えると、「日韓併合」とは、起こるべくして起きたとは言えないでしょうか。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • (ゆが)められた朝鮮総督府 誰が「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

朝鮮半島を帝政ロシアより防衛せよ!! 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

申政変の翌年 ── 明治18(1885)年1月9日、日朝両国は「漢城(ハンソン)条約」を締結しました。これによって日朝両国はようやくクーデターの政治決着を図りました。更に、4月18日には日清両国の間に「天津(テンチン)条約」が締結されました。これによって、ようやく日清両軍は朝鮮半島から撤兵し、又、重大事態に伴い朝鮮半島に軍を派遣する場合、日清両国は互いに事前通告する事としたのです。ここで言える事は、甲申政変が結果的に朝鮮半島から外国軍隊(この場合、日清両軍。特に清軍)の撤兵を可能にしたと言う事です。この後、清朝による軍事的圧力と言う「おもし」が取れた李朝が、自らの手で近代化を推進していれば、歴史はもう少し変わったかも知れません。しかし、折角のチャンスを李朝は自ら「台無し」にしてしまったのです。

城条約が締結された明治18(1885)年、李朝は極東ロシアの軍事都市・ウラジオストック(浦塩斯徳)へ国王・高宗の密使を派遣しました。密使の目的、それは、何とあろう事か李朝が帝政ロシアの保護下に入る密約を締結する為だったのです。

朝露密約の概要

  • 金玉均がウラジオストックに渡った際には、ロシア官憲が逮捕し朝鮮側に身柄を引き渡す。
  • 朝鮮の対日賠償金について、ロシアは日本に対して要求しないよう圧力を掛ける。
  • 第三国が朝鮮半島を侵略した際には、ロシアが軍事力を行使して朝鮮を保護する。
  • ロシアは皇帝の勅命を受けた大臣を漢城(ソウル)に駐在させる。
  • 朝鮮の海域はロシア海軍の軍艦が防衛の任に当たる。
  • 朝露両国間に陸路での通商を開く。

方、清朝より李朝に派遣されていた外務協弁のメルレンドルフが謝罪使(甲申政変時、漢城在住の日本人が朝鮮人暴徒と清兵によって略奪・暴行・殺害された事に対しての)として、2月下旬、来日した際、帰国する4月初旬迄のほとんどを、駐日ロシア公使館書記官スペールとの秘密交渉に費やしました。この交渉でメルレンドルフは、ロシアに対し軍事教官を李朝に派遣するよう打診したのです。つまり、李朝は日清両国と言う「圧力」が無くなり、「自主独立」を歩める素地が出来たにも関わらず、今度はロシアの勢力下に入ろうとしたのです。しかし、この朝露密約は幻に終わりました。天津条約によって、李朝は自主防衛の責任を負うと同時に、外国人武官を教官に招聘出来る事が条項に盛り込まれると、ロシアではなくアメリカから軍事教官を招聘する事を決定したのです。しかし、そんな事とは知らないロシア書記官スペールは、漢城に到着後、外務督弁の金允植(キム・ユンシク)に協約締結を迫ったのです。しかし、閔妃一派とメルレンドルフ等による独断専行だった為に、金允植は協約締結を拒否。この過程で、朝露密約が露見したのです。

露密約を知った日本は、それ迄コリアを巡って対立関係にあった清朝との協力(対露共闘路線)に傾き、李朝への柔軟路線(懐柔策)へと転換しました。しかし、この一件で日本は新たな戦略構築を迫られたのです。地図を広げてみれば分かる事ですが、朝鮮半島は大陸にぶら下がる形で位置しています。日本はその朝鮮半島の南側に下から覆い被さる様に国土を構えています。一見、何の変哲も無い様に見えますが、戦略上、これは非常に重要な事なのです。日本から見ると、朝鮮半島は喉元に突きつけられたナイフの様なものなのです。そして、この事が日本のコリア政策の一つの大きな要素となっているのです。朝鮮半島の後ろには清朝・ロシアと言う二大大陸国家が控えています。その内の一つ、清朝とは天津条約を締結し、朝鮮半島から撤兵させました。問題はロシアです。もし、朝露密約が現実のものとなり、コリアがロシアの勢力下に入ったら・・・日本はまさに喉元にナイフ(ロシアの軍事力)を突きつけられた形となるのです。

本にとってコリア ── 朝鮮半島は海洋国家(シーパワー:日本)と大陸国家(ランドパワー:シナ・ロシア)との「緩衝国家」である事が理想でした。つまり、海洋国家・大陸国家双方の支配を受けない「自主の邦」である事が好ましかったのです。その為に日本は日朝修好条規を締結し、李朝をれっきとした「独立国」として扱い、「開化派」をして近代化させようとしたのです。しかし、李朝はあくまでも大国清朝、日本、そして、ロシア)の保護下に甘んじようとしたのです。結果的に日本は、「李朝は自主独立を放棄した。李朝が(清朝や)ロシアの勢力下に入る事は日本の安全保障上、断固阻止しなくてはならない。従って日本は(清朝や)ロシアに代わって逆に李朝を勢力下に収めなくてはならない・・・」と言う主張が出てきたのです。これが朝鮮半島・遼東半島・満蒙へと続く陸軍の「北進論」へと繋がっていったのです。そして、明治27(1894)年、日本は清国と朝鮮半島の権益を巡って日清戦争を戦い、明治37(1904)年には、ロシアと朝鮮半島の背後・遼東半島と南満州の権益を巡って日露戦争を戦ったのです。この様に、二度に渡って東アジアの超大国を敵に回しての無謀な大戦争をした日本が、常に念頭に置いていたもの、それは、朝鮮半島の「ロシア化」であり、ロシアの南進(南下政策)に対する異常な迄の「恐怖心」だったのです。

参考文献

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • 歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

朝鮮を独立させたのは「日帝」だった!! 

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

後、コリア(韓国・北朝鮮両国)は、戦前の日本植民地時代 ── いわゆる「日帝36年支配」を事ある毎に引っぱり出して来ました。それに対して日本も、これ又事ある毎に歴代の総理(政権)が「謝罪」を繰り返してきました。しかし、考えてみればある意味でこれは非常におかしな事なのです。なぜなら、コリアは、668年の新羅(シルラ,しらぎ)による朝鮮半島統一から ── 1897年、大韓帝国(旧称・李氏朝鮮)の成立に至る1200年間、実は「独立国」ではなかったからです。こんな事を言うと、コリア人は逆上するかも知れませんが、残念ながらこれは「事実」です。百済(ベグジェ,くだら)、次いで高句麗(コクリョ,こうくり)を滅ぼし朝鮮半島を統一(668年)した新羅は、その過程で東アジアの「超大国」唐の軍事力を利用しました。それが災いして、「戦後」、唐は新羅一国となった朝鮮半島を自らの領土にしようとしたのです。つまり、「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」と言う訳です。しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有(直接統治)を断念せざるを得ませんでした。ただ、その過程で新羅に対して、唐は自らの「属国」になる事を呑ませました。つまり、唐は新羅と言う「属国」を通して朝鮮半島を実効支配(間接統治)する道を選んだのです。こうして、唐に始まる歴代支那王朝(政権)を「宗主国」と仰ぐ「属国」コリアと言う関係 ── いわゆる「朝貢関係」が成立したのです。

て、こうして始まった「宗主国」支那と「属国」コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。例えば、国王。コリア(新羅・高麗李朝の歴代王朝)では、たとえ「世子」(皇太子)だったとしても、支那皇帝の承認がなければ王位を継承する事が出来ませんでした。又、コリア王の地位は、支那皇帝は元より、朝鮮駐箚(ちゅうさつ)(支那がコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治・軍事全般を監督させた)よりも、「下位」でした。

 

に元号(年号)。日本では一般に「大化」に始まった(実際にはもっと起源は古いのだが・・・)日本独自の元号が連綿と現代迄続いていますが、コリアでは支那の元号を使わなくてはなりませんでした。と同時に、政治・文化全般においても、支那の「国教」とも言える儒教思想を規範としなくてはなりませんでした。更に、朝貢制度によってコリアは支那に定期的に使節団を派遣、支那皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢ぎ物を献上しなくてはなりませんでした。こう言った事が数百年も続くと恐ろしいもので、いつしか「屈辱的」共言える朝貢制度に何らの疑問も持たなくなり、自らを「小中華」と号し、「本家」支那以上の「中華主義」に徹したのです。そして、支那(明王朝)が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の「中華」が死滅すると、「中華主義の本家(明王朝)が滅んだ以上、中華主義を厳格に守るのは我々しかいない!!」と言う変な使命感を抱き、ますます「小中華」に徹してしまったのです。そして、時代は激動の19世紀を迎えたのです。

米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアに迄広がって来たのです。まず、その標的となったのは東アジアの「超大国」清朝でした。阿片戦争(1840-1842)において清朝がイギリスに敗れた事により、「眠れる獅子」がその実、「張り子の虎」である事が白日の下に晒(さら)されてしまったのです。この事件が契機(衝撃)となり、日本は幕末・明治維新と言う難産を経て、近代国家への離陸を果たす事となったのですが、清朝は相も変わらず鈍重な「眠り獅子」を決め込み、その「属国」である李氏朝鮮(以下、「李朝」と略)も時代遅れな「小中華」に浸ったままだったのです。

代国家へ変貌を遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止する為、隣国である李朝に「開国維新」を迫りました。つまり、日本と李朝が連携して一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐しようと考えたのです。しかし、「小中華」に腰からどっぷりと浸かり、両班(ヤンバン:コリアにおける特権階級貴族)による政治腐敗の極致にあった当時の李朝は、世界情勢 ── 東アジアの植民地化の波が目の前に迫っている事が理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。これによって日本は「対話」から「砲艦」(軍事的圧力)による問題解決 ── いわゆる「征韓論」へと方針を転換、明治8(1875)年の江華島(カンファド)事件を契機に、翌明治9(1876)年、日朝修好条規を締結し、李朝を「開国」させたのです。

朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした「独立国」として承認しました。よくコリア人は、「日帝(日本帝国主義)は朝鮮の独立を奪い、挙げ句の果てには韓国併合(日韓併合)と言う暴挙に出た」と声高に主張します。しかし、当時、清朝李朝に対する「宗属関係」(宗主国と属国の関係)を主張し、欧米列強も李朝を「独立国」として認めず、清朝の「属国」・「属領」として認知していました。そんな中、日本だけが唯一、李朝を「独立国」として承認したのです。そんな気持ちを知ってか知らずか、李朝は相も変わらず清朝を「宗主国」として仰いだのです。その後、日本は朝鮮半島政策を巡って、「宗主権」を主張する清朝と対立、明治27(1894)年、遂に日清戦争へと発展したのです。結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝は遂に李朝に対する「宗主権」を放棄、明治30(1897)年、李朝は国号(国名)を「大韓帝国」、国王を「皇帝」と改称し、遂に「独立」を達成したのです。言い換えれば、日清戦争における日本の勝利が無ければ、李朝は「独立国」となれなかった(裏を返せば、「属国」のまま)訳で、コリア人はその事実を直視すべきだと思うのです。

李氏朝鮮(以後、李朝と略)の時代遅れの「小中華主義」に触れましたが、問題は更に根深かったのです。コリアは新羅から高麗を経て李朝末期に至る迄、なんと日本の平安時代よろしく両班(ヤンバン)による貴族政治が連綿と続いてきました。このコリア版貴族「両班」ですが、元々は「武班」と「文班」を総称して「両班」と言っていたのですが、「武班」が蔑まれた事も手伝って、「文班」のみをさして「両班」と呼ぶようになりました。現代風に言えば、軍人の地位が低下し、官僚の地位が向上したと言う事になるのでしょうが、これがコリアの近代化を遅らせる大きな遠因となったのです。

 

班による貴族政治体制は、コリアに封建時代 ── 日本で言えば、戦国時代を招きませんでした。日本や支那の場合にも言えますが、戦国時代は戦乱に明け暮れると言うマイナス面も確かにありますが、それ以上に地方の独自性が顕著に発達すると言うプラス面もあります。しかし、コリアにはとうとう封建時代は訪れませんでした。その結果、恐ろしい程の強固な中央集権体制が完成してしまったのです。現代日本にも言える事ですが、中央集権体制は確かに国土を一元的に管理するのには非常に効率的な政治システムです。しかしそれが長く続くと、弊害として汚職・政治の硬直化等を招くのも確かです。そうです。李朝も末期になると、両班による中央集権体制の弊害がこれでもかと言わんばかりに顕著になっていったのです。

 

班政治の悪弊。具体的に挙げると、日本では江戸時代に東海道等に代表される街道(現代の国道に相当)が整備されたのに対して、李朝では末期に至る迄、「道」(街道)と言えるものは遂に整備されませんでした。あったのは「径」(こみち:畦道のような細い道)だけです。こんな具合ですから、物資はおろか隣同士の村でさえ、人的な交流はほとんど皆無でした。又、徴税システムが完全に崩壊していました。中央(国王)に納められる筈の税金(及び物品等)のほとんどが途中で消えてしまっていたのです。つまり、中継ぎの役人の手を経る毎に次々と横領されていき、中央に着く時にはそのほとんどが無くなっていたのです。更に、当時の国民のほとんどを占めた農民は、制度化されている税金以外に、当地の役人達が勝手に設ける「私税」をも無理矢理徴収され、現在の北朝鮮よろしく慢性的な食糧不足の中、正に「この世の地獄」を生きていたのです。そこへ現れたのが、明治維新で一足先に近代化の道を歩みだしていた日本の「黒船」だったのです。(詳しくは前回のコラム参照)

 

華島事件(1875年)日朝修好条規(1876年)を経て新たに始まった日朝関係の中で、腐敗しきった両班を横目に、欧米列強のアジア進出と李朝の現状を直視する若者達が現れたのです。彼ら中堅青年官僚達 ── いわゆる「開化派」(「独立党」共呼ばれ、1874年頃結成)は、日夜権力闘争に明け暮れ、自国(李朝)が置かれている現状を省みない両班支配体制と、荒廃しきった国土を憂え、更に、いずれは列強の植民地になるだろうと言う危機感の中、その活路を新興国・日本に求めたのです。

 

「開化派」は、国王・高宗の許可を得て度々日本を訪れました。そして、日本に着いた彼らが目の当たりにしたものは、今迄、「中華」である支那や「小中華」であるコリアよりも「格下」であるとして、侮蔑していた日本の驚くべき発展ぶりでした。そこには、李朝には無いありとあらゆるものがあったのです。たかだか十年前は髷(まげ)を結い、刀を差していた日本人が、今ではアジア一の近代国家へと変貌を遂げている・・・。彼らは日本の現実を目の当たりにした事で、初めて「近代化」の何たるかを知ったのです。そして、彼ら「開化派」は、旧態依然たる「守旧派」が相も変わらず清朝を頼るのに対して、新たなパートナーとして新興国・日本を選んだのです。

 

 朝政府内での開化・守旧両派の抗争は次第に激しくなっていきました。守旧派は清朝の「属国」としての立場を堅持するとして、清朝より派遣されているメルレンドルフ等の駐箚官に国政全般の監督を委ね、益々、清朝への依存を深めていきました。一方、開化派は金玉均(キム・オクキュン 写真)をリーダーに、福沢諭吉・井上馨・大隈重信・渋沢栄一・大倉喜八郎・榎本武揚・副島種臣・内田良平等、日本政財界のキーマン達と親交を深め、日本の支援によって李朝の政治体制を変革する ── 李朝版「明治維新」を断行しようとしたのです。

 

1884(明治17)年12月4日(甲申10月17日)夕刻、高宗の内諾と、日本の軍事支援を受けた金玉均率いる「開化派」は遂に決起しました。世に「甲申(カプシン)政変」と呼ばれるクーデターです。彼ら「開化派」が目指したのは、日本同様に国王を中心に戴く近代立憲君主国家でした。その為、守旧派による国勢専横と、清朝の政治軍事全般に渡る強圧的な干渉に強い不満を持っていた高宗は「開化派」に大きな期待を持っていました。電撃的に断行されたクーデターは日本の2.26事件とは違い、「玉」である国王を手中にしていました。その点、「開化派」にとっては非常に有利だったと言えます。しかし、運命は皮肉なものです。高宗の后である閔妃(明成皇后)等の邪魔、高宗の心変わり(弱気)、そして、最も恐れていた清軍の出動によって、事態は一気に流動化したのです。

 

「開化派」を支援していた日本でしたが、いざ、クーデターが断行されると二の足を踏みました。その最大の誤算は清仏戦争(清朝と仏印=ベトナムとの戦争)の決着でした。「開化派」・日本政府双方共、清仏戦争の継続を望んでいました。清仏戦争さえ続いていれば、いかに清軍とて南北(ベトナムと朝鮮半島)双方に派兵はしないだろうと踏んでいたからです。しかし、清仏戦争の決着によて、清朝はクーデターの漢城(ソウル)に軍を出動させたのです。クーデターには日本軍も開化派兵士として加わっていました。その日本軍と清軍が王宮を舞台に対峙してしまったのです。清朝との前面武力衝突を何としても回避したい日本は、ここでクーデターからの「撤退」をしてしまったのです。日清戦争(1894年)を遡る事十年。日本は、依然腐ってもなおアジアの「超大国」として君臨する清朝との全面戦争はやはり避けたかったのです。富国強兵に邁進しているとは言え、未だ近代化の途上にあった日本にとっては、致し方ない選択だったと言えます。12月7日、「開化派」による新政府は崩壊、親清・事大主義者(守旧派)による臨時政府が樹立され、「維新」は僅か3日で幕を閉じたのです。

 

うして、コリア版「明治維新」は失敗に終わりました。その結果、李朝は今迄以上に清朝の干渉を受ける事となり、「開化派」が目指した「自主独立」の夢は遂に潰(つい)え去ったのです。その後、コリアは日本・清朝・ロシア三国の係争地となり、日清戦争(1894)・日露戦争(1904~1905)を経て、1910(明治43)年、遂に「日韓併合」へと至るのです。

 

一方、クーデター失敗後、日本に亡命していた「開化派」のリーダー・金玉均は、清朝の北洋大臣・李鴻章(「甲申政変」後の朝鮮半島管理監督最高責任者。後に日清戦争講話交渉時、清国全権)との対話を求めていました。1890(明治23)年、彼は李鴻章の養子で駐日公使として日本に赴任した李経方を通じて、「日本・朝鮮清朝三国の連携を以て、南下政策を進めるロシアと、アジアを蚕食する欧米列強勢力に対抗すべきだ」との持論を主張しています。国を逐われて尚、祖国の将来を憂えた「愛国の士」金玉均でしたが、「運命の女神」は彼に過酷な運命を課したのです。クーデターの恨みが消えぬ「守旧派」は、彼を日本官憲の影響が及ばない上海に誘い出し、1894(明治27)年3月28日、刺客・洪鐘宇(ホン・ジョンウ)をして暗殺、翌4月、屍体を斬り刻んだ上、「謀反大逆不道の罪人玉均、当日楊花津頭にて時を待たず凌遅の斬に処す」と書いた木札を掛けて、漢城市内に晒(さら)したのです。金玉均、享年43歳。誰よりも国を愛し、誰よりも国を憂えた志士の、それはあまりにも早過ぎる死でした。

 

余談(つれづれ)

 

玉均に対する屍体凌遅刑が執行された翌5月、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。それを契機に日清両国が朝鮮半島に派兵 ── 日清戦争へと発展したのです。もし、李朝が「開化派」を受け入れ、自力で維新近代化の道を歩んでいたなら ── 金玉均が「首相」として政治改革を主導していたなら ── コリアはもっと早く清朝から「独立」した事でしょう。ひょっとしたら、朝鮮半島を舞台にした日清戦争も起きなかった事でしょう。いや、コリアが日本に伍す近代国家になっていたら、「日韓併合」もなかった事でしょう。そう言う意味では、コリアは自らの手で自らの首を絞めたとも言えます。

 

 

リアは、伝説の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)時代から日韓併合に至る長い歴史の中で、二人の「皇帝」を輩出しました。李氏朝鮮 改め 大韓帝国の高宗(第26代 徳寿宮李太王:在位 1863-1907)・純宗(第27代 昌徳宮李王:在位 1907-1910)父子です。しかし、この二人の「皇帝」も、コリア人の憎むべき存在 ── 「日帝」(日本帝国主義)李朝を「独立」させなかったとしたら、この世に存在し得なかった訳で・・・「歴史」とは、何とも皮肉なものです

 

 

参考文献

 

  • 「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する (呉 善花 三交社 1997)
  • 捏造された日本史 日中100年抗争の謎と真実 (黄 文雄 日本文芸社 1997)
  • 歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか (黄 文雄 光文社 1998)

 

日本がいかに「独立した主権国家」としてアメリカの影響下から脱却するには、どうすれば良いか?

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

本が「独立した主権国家」として、アメリカの影響下から脱却するには、どうすれば良いか? まず真っ先にしなくてはならない事、それは、

独自の国防体制構築

と言えます。では、なぜ「独自の国防体制」を構築する必要があるのでしょうか? それは、「日米安保体制」そのものが日本を「壊死」させてしまうからです。

「日米安保体制」そのものが日本を「壊死」させてしまう!! では、なぜその様に断言出来るのか? これを身近な事例を通して、ご説明致しましょう。

あるサラリーマンが脱サラして、喫茶店を開店しました。するとしばらくして、町内のヤ○ザが店へとやって来ました。ヤ○ザは、喫茶店のマスターに、「毎日、安全に営業出来る様に、俺が守ってやる!!」と言いました。マスターは、相手がヤ○ザだった事もあり、「不用意なトラブルは避けたいし・・・ここは、ヤ○ザの言う通りにするか・・・」と、承諾してしまいました。しかし、これが悪夢の始まりだったのです。早速、ヤ○ザはマスターに対して、毎月3万円の「用心棒代」つまりは「みかじめ料」を要求してきました。そして、1年後には、月3万円だった「用心棒代」を月5万円へと値上げし、更に、2年後には、月5万円から月10万円へと値上げしたのです。そして・・・喫茶店は、「ヤ○ザが出入りする店」として客から敬遠され、法外な「用心棒代」が元で、遂には廃業に追い込まれてしまったのです・・・。

皆さんの中には、この「例え話」と、「日米安保体制」がどう関係あるのか?と思われる方もおありでしょう。しかし、これが「大あり」なのです。では、何故そう言えるのか? それは、

アメリカとヤ○ザは同じ様なもの!!

  1. 日本はアメリカに対して、「自国の領土」を「在日米軍基地」の敷地として「タダ」で貸している。(地主に対して支払われている「地代」は「国民の血税」で賄われている)
  2. 日本は在日米軍に対して、「国民の血税」を割いて「思いやり予算」なる膨大な「用心棒代」を「上納」している。
  3. 日本は在日米軍に対して、犯罪を犯した米兵が検察による起訴前は身柄を拘束する事が出来ないと言う「不逮捕特権」を与えている。
  4. 日本は在日米軍基地に対して、基地内に日本の公権力が及ばない「治外法権」を与えている。
  5. 日米安保体制の「強化」を目指している「ガイドライン」では、有事の際、日本の民間空港・港湾・輸送手段・通信設備等のインフラや、食料・燃料等の物資を、一時的に米軍下に「接収」可能な様に法制化しようと目論んでいる。

だからなのです。どうでしょう? アメリカは、日本から「土地」をタダで借り受け、「用心棒代」を貰い、「特権」を与えられ、万が一の時には、ほとんど全てを一時的とは言え、「接収」する事が出来るのです。そして、そんなアメリカが『日米安保条約』をカサに「在日米軍基地」を、「日本の防衛」にではなく、「世界におけるアメリカの国益の保護」を目的に機能させていると言う事実!!(前回のコラム参照) 程度の差や「毛並み」の違いこそあれ、ヤ○ザと何ら変わらないのです。

れでは日本はどの様な国防体制を構築すれば良いのでしょうか? まず、思い切って、『日米安保条約』を「破棄」する事です。先程も書きましたが、日本は毎年々々、在日米軍に対して膨大な「思いやり予算」を支払っています。しかし、もし『日米安保条約』が無くなったら・・・「思いやり予算」を支払う必要等ありません。その分を純粋な意味での「日本の国防」目的に活用すれば、充分な体制を構築出来る筈です。又、「自国は自国で防衛する」と言うのが「独立主権国家の鉄則」です。

に、憲法を改正し、その地位が玉虫色的な「自衛隊」を、「陸・海・空軍」として明確に位置づけるべきです。よく、「防衛」を「防衛」に、「自衛」を「」に昇格させると、「周辺諸国から警戒・反発される」・「軍国主義復活と受け止められる」等と言う意見が出ますが、それならば、中国(人民解放も韓国(国防も、「軍を持っているから軍国主義」と言う事になるのではないでしょうか? もし、そうであるならば、思考があまりにも短絡的過ぎます。

後に「集団安保体制」を構築する事です。それには、「台湾」を「独立主権国家」として承認し、断絶したままの「国交を回復」させなくてはなりません。日本としては、「中国」は中国、「台湾」は台湾(「中華民国」ではなく)であり、どちらとも国交を持つと言うスタンスが必要だと思います。そして、その上で、日本・「独立」台湾・フィリピンの三ヶ国で集団安保条約(日台比枢軸)を締結し、東シナ海のシーレーン(海上交通路)の安全を確保しなくてはなりません。これは、先の中国による台湾海峡での大規模な軍事演習を持ち出す迄もなく、東シナ海のシーレーンが南シナ海同様、日本の「生命線」だからです(その具体例として、中東からこのルートを通って、石油が運ばれてくる)。もしひとたび、ここで中国と台湾が全面衝突する様な事態になれば、日本は「対岸の火事」として傍観等していられません。だからこそ、紛争を未然に防ぐ為にも、「抑止力」としての「日台比枢軸」による集団安保体制は必要なのです。

朝鮮が「人工衛星打ち上げ」と嘯(うそぶ)いた「テポドン・ミサイル発射実験」(大浦洞)。たった一発のミサイルに、日本は政府も防衛庁も、上へ下への大騒ぎとなり、「日本の国防」があまりにも「脆弱」である事を図らずも露呈してしまいました。ミサイルが「攻撃目的」での発射でなかった事、「核弾頭」等を搭載していなかった事で、あまり重大に受け止められていない様ですが、問題は非常に切実かつ逼迫していると見るべきです。なぜなら、北朝鮮が先の「ノドン・ミサイル」(労働:イラクのスカッド・ミサイルを改良した物)を上回る性能のミサイルを保有し、日本全土を射程に収めた事。又、核弾頭等持たずとも、ミサイルの攻撃目標を福井・柏崎・東海村等、原発施設にすれば、核攻撃をしたのと同じ結果を出せる(放射能汚染)事です。だからこそ、日本は一刻も早く独自の国防力を整備し、「国家の独立」を存続させなくてはなりません。いざと言う時、『日米安保条約』とアメリカほどあてにならないものはありません(アメリカの国益の為ならば、たとえ同盟国でさえ裏切れる)。最後の最後に一番信用できるのは自分自身(自国)だけなのです。

アジア解放の端緒~日露戦争の歴史的意義

投稿日: 2011年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

 

1938(1905)年5月28日、「世界最強」と謳(うた)われたロシア・バルチック艦隊は、東郷平八郎元帥率いる日本・連合艦隊によって完膚無きまでに叩きつぶされました。世に「日本海海戦」と呼ばれる日露戦争(1904~1905)のクライマックスです。ここに日清戦争に続いた大戦争・日露戦争の雌雄は決したのです。しかし、日本にとって「皇国の興廃」(日本の存立)を賭けた大戦争は、単に日本とロシアの-極東での一戦争ではなかったのです。と言う訳で、今回は日露戦争のもう一つの側面に光を当ててみたいと思います。

日本海海戦に臨む日本連合艦隊
▲ 日本海海戦に臨む日本連合艦隊 

露戦争における「日本の勝利」がもたらしたもの。これを知る事で、日露戦争の真の「歴史的意義」が見えてきます。その第一の鍵は、日露戦争に対する海外-とりわけアジア諸国の論評です。

『日本の日露戦争での勝利は、「アジアは泰西文明(欧米文明)に達する資格なし」とする欧米諸国の偏見を無効にした点で、同じアジアの一員たる自分達を勇気づけた。 (中略) 日本先帝陛下(明治天皇)は露国(ロシア)を撃破したる後、アジア全般に立憲思想を普及せられたるが、日本の立憲政体に倣(なら)いたる最初の帝国は波斯(ペルシア)にして、土耳其(オスマン-トルコ)、之に次ぎ、清国は最後に日本の顰(ひそみ)に倣いたり。抑(そもそ)も波斯、土耳其、及び清国の三帝国は終始露国の圧迫威嚇の下にあり (以後略)

(ペルシア・『ハブラル-マタン』紙 1912(大正1)年8月15日付)

上記は明治天皇崩御に際して、ペルシア(現イラン)の新聞が掲載した論評ですが、この他にも、トルコ・エジプト・フィンランド・バルト三国等、西洋の植民地化の下-とりわけロシア帝国の脅威にあった諸国は、日露戦争での「日本の勝利」に歓喜し拍手喝采を送ったのです。そして、その「歴史的意義」こそ、

「白人国家 VS 非白人国家」での非白人国家の最初の勝利

だったのです。それでは、日露戦争での「日本の勝利」は、その後のアジア諸国にどの様な影響を及ぼしたのでしょうか? 次にこの点について見てみましょう。

東郷平八郎 アミラリ(トーゴー・ビール) れまで、欧米列強に蚕蝕されていたアジア・アフリカ諸国は、

「自分達がどう転んだ所で、欧米列強には敵(かな)いっこない」

と諦(あきら)めていました。そこへ、極東の新興国(ニューパワー)・日本が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグ・ニュースが飛び込んだのです。このニュースによって、日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に「独立」と言う希望を抱かせたのです。又、日露戦争での「日本の勝利」-そのリーダーである「明治天皇」は、第三世界に強烈なインパクトを残し(東郷元帥(左写真)もフィンランドの「トーゴー・ビール」(右写真)の名に使われている)、第三世界に次々と新たなリーダーを輩出させたのです。

「ポスト明治天皇」を自負した第三世界の指導者達

ケマル・アタテュルク Mustafa Kemal Ataturk(1881-1938)
近代トルコの父にして、トルコ共和国初代大統領(在職 1923-1938)。日露戦争での「日本の勝利」に感化され、トルコを前近代的なスルタン-カリフ制(帝制)から共和制へと移行、トルコの近代化を推進し、「アタテュルク」(父なるトルコ人=国父)の称号を贈られた。トルコは親日国で、明治天皇と東郷平八郎元帥は、トルコ国内でもヒーローとして有名。 

ナーセル Jamal‘Abd al-Nasir(1918-1970)
エジプトの軍人・大統領(在職 1956-1970)。中学生時代、反英デモ(1934-1936)に参加し、民族主義に共鳴。1952年、軍事クーデターで腐敗したファルーク王制を打倒(7月革命)し、ナギーブ初代大統領失脚後、大統領となる。この間、スエズ運河を封鎖し、旧宗主国であるイギリス勢力をエジプトから一掃し、エジプトをアラブ世界の盟主へと押し上げた。彼も「日露戦争における(日本の)勝利は自分の人格形成に大きな影響を与えた」と語っている。 

サッダーム・フセイン Saddam Husayn al-Takriti(1937-)
現イラク大統領(在職 1979-)で、言わずと知れた湾岸戦争の一方の立役者。その性格(独裁者)ゆえか、新バビロニアの王になぞって「ネブカドネザル3世」と揶揄される。湾岸危機当時、日本が派遣した特使に対して、「かつて白人勢力に抵抗した日本が、なぜ、今回はアメリカ側につくのか?」と発言したと言われている。ちなみに、湾岸戦争の原因となったイラクとクウェートの国境線(領土)問題は、イギリスからの独立時に、イギリス等欧米列強によって「勝手」に線引きされたもので、そう言う意味で湾岸戦争の遠因は、イギリス等欧米列強にあった共言える。現在も問題となっているイスラエルとパレスチナ(及びアラブ)の対立問題も本質はこれと同じ。

以上の様に、日露戦争における「日本の勝利」は日本と言う一新興国の勝利ではなかったのです。この大戦争における「日本の勝利」によって、欧米列強の植民地化や搾取・圧政に苦しんでいたアジア・アフリカ諸国は日本に感化され、それぞれ「独立」への道(独立闘争)を歩みだしたのです。そう言う意味で、大東亜戦争(太平洋戦争)が「東アジア解放戦争」だったとすれば、日露戦争とは「西アジア・アフリカ解放前哨戦」だったと言えるのです。

参考文献

  • 歴史読本臨時増刊 のぞきみ日本意外史(新人物往来社 1991.6)