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中華帝国的侵略手法

投稿日: 2012年10月9日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

尖閣諸島をめぐり次から次に理不尽な要求を畳みかける中国の「中華帝国的侵略手法」を危惧する。

中華帝国的思考のもとでは、現実、歴史的経緯、慣習などは意味をなさない。そのことは例えばチベットを見ればわかりやすい。かつてチベットは中国に属したことなど一度もない独立国家であった。中国国家からは「藩部」という位置づけで、中国と対等の「同盟国関係」にあった。しかし、後に突然その関係を反転させ、自らを「チベットの統治者」といい出し、「解放」と称して軍事制圧。いまなおチベットの人たちを激しく弾圧し、支配しているのは周知の通りである。

中国は1992年に南シナ海の西沙、南沙、東沙、中沙諸島のすべてを自国領だと一方的に宣言し、中国領だと明記した「領海法」を制定した。無論、南シナ海のそれらの島々に、中国が自国領だと主張できるような事実はない。

しかし、1995年にはフィリピンが領有していた南沙諸島のミスチーフ環礁を占領。70年代に侵出した西沙諸島周辺海域には中国海軍の軍艦を常駐させ、昨年11月には2つの島に中国共産党組織の村委員会の設置を決めた。

まず自国領だと「宣言」し、法律をつくる。中国の漁民、もしくは漁民を装った軍人をその島々や海に侵入させ、相手国が異を唱えれば、中国の国内法をもとに領有権を主張し、軍事力で相手を排除し、支配を既成事実化する。これが典型的な中華帝国的侵略手法なのである。

tibet_map※週刊ポスト2010年10月8日号

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がんばれ!俺たち日本人!!

投稿日: 2012年9月22日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

この地図を見ると、真っ先に半島が赤くなるんだね。

韓国が日本に仕掛けている竹島や

慰安婦問題を問題化している

暇はないはずなのに・・・シナ政府の陰謀に

はまっちゃってるんだ。

マヌケな話だ。

こうならないよう我々は結束しなきゃならない。

がんばれ!俺たち日本人!!

シナ人の侵略は以前からあった

チベット・ウイグル・南モンゴル・満州は侵略され

民族虐殺されている、漢民族は圧倒的に少ないのだが

漢民族に支配されている

これらを絶対許すな!

がんばれ!

俺たち日本人!!

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nai

あぶ

長江の河水が真っ赤に変色=大量虐殺か??

投稿日: 2012年9月12日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

重慶市内を流れる長江と嘉陵江の合流地点の様子

長江の河水が真っ赤に変色=重慶市


【大紀元日本9月10日】重慶市を流れる長江の水が赤く変色している様子を撮影した写真がこのほど、ネット上で話題となっている。
 写真は同市朝天門付近、長江と嘉陵江が合流する地点で撮られたもの。赤色をした長江の水と黄色の嘉陵江の水がはっきり分かれているのが確認できる。
 市当局は6日午後、水質調査をしたところ、沿岸には汚染物質の排出が認められなかったと発表。上流の増水期で運ばれた砂が原因ではないかと当局は見ている。一方で同日夜、重慶市の広い地域で断水が発生した。
 翌7日に当局は、河水の変色は水中の鉄分含有量が高いためだとし、有害物質は検出されなかったと発表した。混濁度が高いことを除けば、飲用水としての指標は正常だという。しかし、鉄分含有量が高い理由については言及されていない。
 当局の発表に市民は納得していない様子。「長江の辺で育ったけど、こんな色を見たことがない」「上流のどこまで調査したのかを公表しないと、調査結果は信用できない」と市民らは声を上げている。

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チベット(西蔵)は中国の領土ではない

投稿日: 2011年10月6日 | 投稿者: ★ちょろQコレクション★

1951年、中国人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐、「チベット解放」を宣言した。チベットの混乱の中、チベットの政教一致の最高指導者(国家元首)ダライ・ラマ14世は、側近と共にチベットを脱出、インド領ダラムサラに臨時政府を樹立した。それから、既に46年…果たして、46年前の「チベット解放」は正しかったのか? 又、中国政府に反革命分子の総帥と決めつけられているダライ・ラマ14世とは、一体、チベットにとってどのような存在なのだろうか? まず、チベットの歴史から簡単に触れてみましょう。

 ベットは古くは羌等と呼ばれ、その領土も現在の地図で言えば、チベット自治区・青海省・甘粛省南部・四川省西部・雲南省北西部・ブータン・シッキム・ネパール北部・インド北西部・パキスタン東北部にまで及び、アジア中央に位置した大国です。古来より中国とは密接な関係にあり、中国の五胡十六国時代には、中国領内に成漢・前秦・後秦・後涼の四王国を相次いで建国しています。又、629年には小国に分裂していたチベットを、ソンツェン・ガンポ大王が統一、吐蕃を建国します。吐蕃はその後、東トルキスタンの要衝を押さえ、755年、唐(中国)に安史の乱が起こると混乱に乗じて、遂に唐の首都長安に進駐します。アジアの大国唐は、国内の反乱と共に、「チベットの影」によって衰退したとも言えます。その後、吐蕃は843年にラテン・ダルマ帝が暗殺され、分裂してしまいます。

在のチベット文化が形成されたのは、ラマ教(チベット仏教)が本格的に普及し、チベットの国教になってからの事です。そして、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマが宗教のみならず、政治的にも権威を有し、首都ラサのポタラ宮殿が事実上の政府になります。又、近世以後のチベットは吐蕃時代の「武力」による進出から180度反転し、「ラマ教」による進出を果たします。これはある意味では成功し、ネパール・ブータン・シッキム・モンゴルにダライ・ラマの権威が及びます。しかし、これは両刃の剣でもありました。モンゴルや青海地方の為政者は、度々チベットに進駐し、ダライ・ラマの権威を背景に「ラマ教文化圏」に影響力を行使するようになります。その最たるものが満州人の建国した清朝です。

は、1720年、内陸アジアの大国、ジュンガルに占領されていたチベットに進駐、ダライ・ラマ7世を首都ラサに入れると共に、カンチェネ・ポラネの2人を「宰相」に任命、チベットを間接統治するようになりました。1728年には、宰相ポラネが内乱を鎮圧し清朝から全チベットの蔵務総理・郡王に任命され、事実上の「チベット国王」となります。しかし、1750年、チベットで反清暴動が起こり、ポラネの子ギュルメ・ナムギェル郡王が暗殺されると、清軍が進駐し、これ以後、清朝による直接統治の色合いが濃くなりました。

代に入ると、アジアに欧米列強が進出しますが、チベットも例外ではありませんでした。インドを手中に収めたイギリスが、1893年、清朝との間に蔵印条約(シッキム・チベット条約)を調印。更に1903年にはヤングハズバンド大佐率いるイギリス軍がチベットに遠征、翌1904年には遂に首都ラサに侵入、武力にものを言わせて、ラサ条約を調印してしまいます。この時、ダライ・ラマ13世はモンゴルへ亡命、1910年、清軍が進駐すると、今度はインドへと亡命してしまいます。

ベットに好機が訪れたのは、1912年のこと。辛亥革命により清朝が滅亡すると、亡命先のインドからイギリスの支援を受けたダライ・ラマ13世がチベット本国に帰還、「チベット帝国」の「独立」を宣言します。しかし、1951年、中国人民解放軍がチベットに進駐、翌1952年には人民解放軍チベット軍区が設置され、中国は「独立国」チベットを廃止し、「チベット自治区」を設置してしまいます。

かし、満州の例を見てもお分かりの通り、チベットは満州人の国清朝に征服されていたのであって、中国に征服されていた訳ではありません。又、辛亥革命の際、清朝からの独立を宣言したのですから、その地位は孫文の建国した中華民国と対等だった筈です。つまり、現在のチベットの状況は満州同様、中国による不法占拠であり、チベットに進駐した「人民解放軍」は「人民抑圧軍」だった訳です。又、「反革命分子」の総帥と決めつけられているダライ・ラマ14世の地位は、現在も「チベット帝国」の正統な「国家元首」であり、北インドのダラムサラにある亡命政府は「独立」チベットを代表する正統政府な訳です。先のドイツ連邦議会での「チベット決議」がそれを何よりも物語っていると言えます。(